投野先生にお話を伺うにあたり、2008年に『英語青年』で組まれた特集「英和辞典の新時代」に先生が寄せられた「電子メディア対従来型辞書」を再読し、そこに書かれていることが2024年の今でもまだ古くなっていないことに驚きました。そして、「先見の明」というのが投野先生を語るときのキーワードになるのだと、インタヴューを終えて思いました。先生が力を入れてこられた研究のほぼ全てにおいて、投野先生が先鞭をつけ、黎明期、初期の研究として広く引用されている。「ユーザー・スタディ」という言葉が一般的に使われるようになる前に、卒業論文で辞書使用者の行動を明らかにする。COBUILDが出た時に、これからはコーパスの時代、と専任職(しかも母校の学芸大)を辞めてコーパス言語学でPhDを取るために渡英の決断をする。学習者コーパスを日本に広めたのも、「コーパス」をコーパス君というキャラクターにまでして認知度を高めたのも先生。CEFR を日本の英語教育に応用できる CEFR-J という形にしたのも。『エースクラウン英和辞典』がこれからどのように進化を遂げるのか、また、投野先生の手でこれまでの概念を覆すような辞書がきっと生み出されることになるーと、とても楽しみになりました。
そして、本当にお忙しいところ貴重なお時間を割いていただいたのに、インタビュー後にはとても美味しいピザをご馳走になってしまったのでした。
投野由紀夫
Yukio TONO- 1985年
東京学芸大学教育学部中等教育教員養成課程英語科 卒業
- 1987年
東京学芸大学大学院 修了
- 1987年
東京都立航空工業高等専門学校 講師
- 1990年
東京学芸大学 講師
- 1998年
ランカスター大学(博士課程)(Ph.D. 2002取得)
- 2001年
明海大学外国語学部英米語学科 准教授、2005年 教授
- 2007年
東京外国語大学大学院地域文化研究科 准教授
- 2009年
東京外国語大学大学院総合国際学研究院 教授、2010年 教授
『エースクラウン英和辞典』、『プログレッシブ英和中辞典』第5版(2012)編集主幹。
『エースクラウン英和辞典』、『プログレッシブ英和中辞典』第5版(2012)編集主幹。
- 1985
東京学芸大学教育学部中等教育教員養成課程英語科 卒業
- 1987
東京学芸大学大学院 修了
- 1987
東京都立航空工業高等専門学校 講師
- 1990
東京学芸大学 講師
- 1998
ランカスター大学(博士課程)(Ph.D. 2002取得)
- 2001
明海大学外国語学部英米語学科 准教授、2005年 教授
- 2007
東京外国語大学大学院地域文化研究科 准教授
- 2009
東京外国語大学大学院総合国際学研究院 教授、2010年 教授
Interview
インタビュー2024.04.04 実施
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01.-
辞書編集者になるまで
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先生は、お父様が英語の先生でいらしたということで、小さい頃から「英語」に自然に興味を持たれたのでしょうか。
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父は中学の英語教員をしていましたが、家で私に英語を教えてくれたことはなく、英語の勉強が話題になることも特になかったです。ただ、小学校4年生の頃、NHKラジオ講座「基礎英語」を聞いてごらんと言われて、わからないなりに聞いてはいました。中学に入学するまでの3年間で、なんとなく耳が慣れるということはあったかもしれません。父は英文学の専攻だったので蔵書がかなりあって、覚えている限りでもNew Century、研究社の『英和大辞典』、『ランダムハウス英和大辞典』、勝俣の『英和活用大辞典』から研究社『英和中辞典』などが本棚に並んでいたので、ちょっと知りたいなと思えば、調べられる環境にはあったとは思います。
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特に英語の勉強に興味があったわけではないのに3年間「基礎英語」を聞き続けられたのはどうしてでしょうか。
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英会話のストーリーや場面に惹かれていたのかもしれません。幼少から本を読むのが好きでしたし、漫画も好きで、読んだ後に、自分でも真似て絵を描いたり、原作のストーリーの続きを勝手に創作して漫画にしてみたりしていました。当時はやっていた『巨人の星』、『タイガーマスク』などの続きも描きましたよ。
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想像力と創造力を備えたお子さんだったのですね。
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そうかもしれません。才能があったかどうかはわかりませんが、後にNHKラジオの仕事でスキットを考えたりするのが苦にならず楽しんでできたのは、そういう資質があったからかもしれません。
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お父様が英語教師だったから英才教育を受けた、というわけではないのですね。
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中学では部活動(陸上部)もしていたので、塾に行くこともなく、完全に学校のカリキュラム通りに英語を学びました。通信添削で勉強していましたが、教育社という会社の『トレーニングペーパー』という、いわゆる教科書準拠通信教材だったので、塾のように先取りすることはありませんでした。それでも勉強は全般的にできて、成績もほとんどオール5という感じだったので、英語の成績もよかったですが、一方でクラスには塾でずっと先のことを知っている友達もいたので、英語が得意という意識は中学時にはまったくなかったですね。
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真面目に勉強に部活動に取り組む中学生、といった感じだったのでしょうか。
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当時の風潮からすると、非常に真面目な生徒だったと思います。小学校の高学年からずっと学級委員をしていましたし、公立の学校で、けっこう不良も多くて、不良は薄い板のような鞄を持ち歩く時代だったんですけど(笑)、私は教科書を全部鞄に入れて、幅20センチくらいもある分厚くて重たい鞄を毎日持って通学していました。教頭先生が、私が登校して用務員室の前を通ると必ず呼び寄せて、用務員さんに「この分厚い鞄を見て。珍しいでしょ。」と話をするのがお決まりでした。真面目ゆえに不良に目をつけられて、投野が学級委員になるのを阻止しろ、なんて事件もありましたが、もう一人の学級委員の女の子がパワフルで、不良たちを叱りつけて事なきをえたり(笑)。
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英語の勉強に目覚めたのはいつなのでしょうか。
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都立日比谷高校に進学したら、普通に勉強をしていればオール5が取れた中学校とは世界が違いました。中学では成績優秀だと思っていたのに、高校では英語のリーディングのクラスでは、先生が OED を引いて授業準備をしてくるような感じで、レベルが違いました。予習をしないとついていけないのだけれども、ひょんなことから入部した合唱部の練習が忙しくて。部活動に力を入れるのに反比例して成績が下がってしまいました。2年生の最後の実力テストで、400人中300位くらいだったので、このままではまずいと思ってZ会の通信添削を始めました。それがきっかけで、英語の勉強が面白くなりました。
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辞書を参照して答案を作成するように勧めてくれた添削者との「運命の」出会いがあったんですよね。
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そうなんです。最初は添削の問題が難しくてまったく歯が立ちませんでした。返却された答案は真っ赤に直されていて、最初はそれを見るのもイヤで放り出していたんです。半年くらいは問題を返却できない日々が続きました。ある時、一度完成させた問題を送ったところ、ある添削者が「ここは〇〇辞典に××と書いてある。語義3を見よ」みたいにコメントを欄外に付けてくれていました。それで次に回答する際に、私が答案の余白に参照した辞書をメモしておくと、それに対しても「これはよし」「これは△△辞典、語義2が正しい」のようなコメントを返してくれたんです。それで、答案を作成するために先生が教えてくれた辞書や参考書を調べまくるようになりました。父の書棚の『英和活用大辞典』に加えて『研究社英和中辞典』、『クラウン英和辞典』、『クラウン和英辞典』、そして後には用例が豊富な『カレッジクラウン英和辞典』も買い足しました。色々な辞書を引き比べていくと、それぞれの辞書の特徴や強みもわかってきて、答案を作成する時間も辞書も増えていきました。最初は1時間半程度で作っていた答案は、高3の終わりには10冊近い辞書をとっかえひっかえ参照しながら10時間くらいかけて作成していました。本来、添削する答案はランダムに添削者に割り当てられるのだと思うのですが、かなりの確率でその先生が添削をしてくれて、添削者も私とのやり取りを楽しんでくれていたのかな、と思います。高3の後半の英語の実力模試でなんと学年1位に躍り出ました。その頃、その添削者の先生が、「君もだいぶ辞書を引けるようになったから、英英辞典を買いなさい」と言って1978年に初版が出たばかりの『ロングマン英英辞典』を推薦してくれました。購入して、その英語の定義のわかりやすさに感動しました。
この時期に英語の力の基礎というのか、英文の難解な部分の問題点を見つけてそれに必要な情報を検索し取ってきて、それを文脈に照らして吟味して、問題を解決する力の基礎が養われたと思います。辞書を活用して自ら主体的に学習に取り組む姿勢を身につけることができて、英語の勉強が楽しく、英語が得意と感じるようになりました。
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東京学芸大学への進学、英語の教員になるということを決められたのは、それがきっかけなのでしょうか。
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小学生の頃から、漠然と先生という仕事には憧れを持っていました。親の影響というよりも、教育実習に来る大学生に憧れを抱いていて、実習生が自己紹介で必ず「東京学芸大」というので、学校の先生になるなら学芸大というところに行くのか…と刷り込まれた感じです(笑)。特にこの科目、というものがなかったのですが、自分が特別できるものは何なのだろう、と考えた時に、英語の勉強が面白くなっていて、高3の夏には英語の教師を目指すことにしました。
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学部時代はどのような勉強、ご研究をされていたのでしょうか。
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東京学芸大学は厳しい先生がたくさんいて、江川泰一郎先生に1年目に学校文法の基礎を英詩を読みながら教わり、生成文法の大家の梶田優先生の授業では、Quirk & Greenbaum の A University Grammar of English (1973) を読みました。当時は生成文法が言語学の中心で、筑波大もそうでしたが、学芸大でもその勢力と影響が非常に大きかったです。言語は科学である、という見方で、応用言語学も生成文法から端を発する認知科学の隆盛から生まれたと言って良く、その影響も大きかったです。人間はそもそも言語をどのように習得するのか、というところから「第二」言語をどうやって習得するかが応用言語学の出発点なので、抽象度の高い言語理論を学んだことは、その後、学習者データの分析をするに際してものすごく役に立ったと思います。英語教育学関係では、羽鳥博愛先生の教育心理学や実証研究の方法論に関する授業を取りました。そして、指導教員は当時スタンフォード大学から帰ってきたばかりの金谷憲先生で、先生も英語教育における実証研究の大切さを基本から我々に教えてくれました。
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1年間の交換留学も経験されているのですよね。
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1982年、3年次にフロリダ州立大学に国費留学で1年間行きました。専門のことをあまり調べずに、温暖な気候に惹かれて(笑)フロリダを選んだので、履修できる専門科目が思っていたのとは違ってしまって、少し失敗したかな、と思いました。けれども、まったく日本人がいなくて、滞在の前半は白人学生と黒人学生と3人で一緒にアパートに住んだり、多言語多文化主義の研究が盛んな大学だったので、そういった環境に身を置くことができたのはよい経験だったと思います。英語の会話力はそれほどではなかったですが、日本で1、2年としっかり勉強していたので、言語学などは現地の学生よりも詳しく、多く発言したりしていました。まだ Windows ができていなかった頃ですが、コンピュータ言語学の授業があって、SNOBOL(スノーボール)というプログラミング言語に出会い、その面白さや将来的な可能性を感じました。
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大学4年間で辞書熱はさらに増したそうですが、辞書と大学での勉強との関係はどのような感じだったのですか。
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辞書は、大学の授業とは別に、趣味のような位置付けでした。幼い頃からの収集癖も手伝って、英語辞書にはどんなものがあるのかを全て知っておきたい、というような気持ちになるんですよね。それで目録を作るのに、色々と資料に当たりました。英語辞書の歴史に関する文献も独学で読み進めました。神保町の古本屋街に通って4年間で400冊以上の辞書を買い集めました。
学芸大の中等教育教員養成課程は1学年20名もいない小規模な集団だったので、1年もすると先生方にも「投野は辞書好き」と認識されていて、4年生になる頃には辞書のことなら投野に聞け、と言ってくれていました。
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辞書ユーザーの検索スキルを実証的に研究してまとめた卒業論文 “On the Dictionary User’s Reference Skills” (1984) がいきなり国際的な評価を得たのはすごいですよね。
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卒論のデータを集めている中で、英国エクセター大学のハートマン博士に手紙を書いて、当時発刊された辞書使用の論文集を入手したいと依頼したところ、もう絶版だというんです。残念に思っていたら、先生がわざわざout of print になっていた論文集を全部コピーして自家製本してはるばる日本まで送ってくれたんです。感激して、論文が完成した折に、感謝の気持ちを届けたいという思いでお送りしたら、その内容を面白がってコピーして周囲の研究者に配ったみたいで、翌年のLEXICOGRAPHICA 3 にMartha Ripfel 先生による書評が掲載されることになったんです。ただ、ドイツ語だったので、ドイツ語の先生になんて書いてあるのか概略を教えてもらいました(笑)。その後、ドイツの辞書学の大家の Wiegand 先生なども私の論文を唯一のユーザー研究における「実験」だと褒めてくださいました。
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大学院への進学は自然なことだったのでしょうか。
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大学の先生になりたい、というような気持ちは最初はなくて、もうちょっと勉強して、修士課程を終えて専門性をつけてから英語教員になりたいな、と思っていました。金谷先生からもその方がいいとアドバイスももらっていたので。
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大学院では OED を引きまくっていたと読みました。
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毎日OEDっていうわけでもなかったのですが、大学院では教職を取るために言語学と文学の授業を1つずつ必修科目として取る必要があって、イギリス文学の授業を取ったのですが、それがミルトンの Paradise Lost を読む授業だったんです。しかも先生と1対1で。正直に言うとあまり内容に関心がなかったのですが、訳本で切り抜けるのも通用しなさそうだったので(笑)、全体がよくわからないなりに読んでくる部分を OED を引きまくって、それで、気になった単語に着目してGlossary にはこうあるが、OED の何番目の語義の方がいいのではないか、とか質問したり、OED にミルトンの用例が載っていたりするとその話をしたりして、自分の興味のある辞書の内容でほとんど時間使いました(笑)。1年後、その先生は私には文学のセンスはない、と思ったと思いますが、「投野君、1年間よく OED を引いたわね。」と言って、先生がお持ちだった OED の compact editionをプレゼントしてくれたのです。学芸大の先生はみなさん私のようなちょっと変わり者でも可愛がってくださいました。
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初めての辞書のお仕事は『英語派生語活用辞典』(1989)でしょうか。
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実はその前に、辞書に関係する初めての仕事としては、院生になったばかりの頃かと思うのですが、『ユニオン英和辞典』の校閲作業の下準備のようなことをさせてもらって、その時に外大の竹林先生の研究室を訪れました。「辞書が好きだって聞いたけれど」と言って迎えてくれたのが、当時院生だった斎藤弘子先生で、あまりの美貌に何を喋ったかわからないまま帰ってきたのを覚えています(笑)。
執筆者としては、『英語派生語活用辞典』(1989, 研究社)が初めてで、東京学芸大学の羽鳥博愛先生から声をかけていただき、学芸大附属高校の池田重三先生が中心で編纂しました。あまり記憶がないのですが、編集会議では分担して書いた原稿を読み合って、コメントをし合う、ということをしていたと思います。集中して一泊で合宿をしたこともありました。私は本当に末端に加えてもらった感じですが、言語学的というよりも学習者の目線、教員の目線で作った辞書だと思います。羽鳥先生は、私が辞書に目をつけているのは、学問的にとても良い視点だとおっしゃってくださっていて、他の先生方が単に趣味のように思っていたかもしれない中、英語を勉強する上での辞書の重要性や、学習者がどのように辞書を使って勉強するのかを研究するのは大事だからしっかりやってくれ、と。それも自分の研究の方向性に自信が持てた一因でした。
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02.-
コーパス言語学と辞書編纂
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コーパスに興味を持たれたきっかけを教えてください。
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これはまさしく1987年のCollins COBUILD English Language Dictionary の登場です。コウビルドが出版された年に大学院の修士課程を終えたのですが、あの辞典を見た時に、直感的に、新しい時代が来た、難しい辞典だけれどもこれはすごい、と感じました。これからの辞典編集にコーパスは絶対に必要になり、コーパスを使うと色々自分が知りたいSLAの語彙習得などの研究もできるな、と頭の中でイメージがぱぁっと広がっていったんですよね。
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それで東京学芸大学の専任の職を辞されてランカスター大学で博士号を取得する決断をされたんですよね。
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コーパスの世界は辞典を研究するにも必須だから、何としてでも絶対に知りたいと思いました。パートタイムで学ぶことも考えましたが、周りに話を聞いてみると10年くらいかけてという人が多くて、コーパスは技術がどんどん変わってしまって10年はかけられないと思い、家族と交渉しました。随分と身勝手なことをして、家族には大変な迷惑をかけました。
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先生は、英語コーパス学会の第6代会長(2016-2019)を務めていらっしゃいますが、日本におけるコーパス研究において、学習者の視点を取り入れた研究の発展に大きく寄与されたのではないかと思っています。
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英語コーパス学会は、どちらかというと歴史言語学から始まった研究会で、最初はヘルシンキコーパスなどを使った研究が盛んだったと思います。それからブラウンコーパスなどの100万語規模のデータ分析がメインになって、中村純作先生がバーミンガムでシンクレア教授とされた研究などが有名です。当時、赤野一郎先生や井上永幸先生も、コーパスの辞書への応用を研究し始めていました。語法研究にもコーパスを取り入れて進化させていったと思います。
そこから、私はコーパスを言語教育の分野に応用することを積極的にやっていきました。2001年に学習者コーパスを使った博士論文 “The Role of Learner Corpora in Second Language Acquisition Research and Foreign Language Learning: The Multiple Comparison Approach” で PhD を取得して、明海大学にいた6年の間(2001-2007)にかなり学習者コーパスに関する発表をしました。ヨーロッパで学習者コーパスが作られ始めたのが1990年代初めなので、私が作り始めたのと同時期になります。初期の研究者として論文に引用されたり、国際学習者コーパスのジャーナル創刊時には巻頭インタヴューを受けたりしました。加えて、JACET4000を8000に改訂するプロジェクトが2002年に始まって、私も参加したのですが、そこに村田年先生や石川慎一郎先生もいらっしゃいました。ここでも2000年代にEU圏外で利用できるようになったBritish National Corpus International Editionの使い方を紹介したりしていたので、プロジェクトメンバーの多くがコーパスを使うようになりました。2001年から明海大学にいる5、6年の間に、コーパス関連のワークショップを何度も開催し、Laurence Anthony氏とPaul Nation 先生を引き合わせてその後彼らがさまざまな語彙リスト分析のツールを作るようになります。また基本語彙の研究をされていた日本大学の中條清美先生などもその後コーパス研究に邁進するきっかけとなったと思います。
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03.-
『エースクラウン英和辞典』の編纂
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編集主幹として編纂に携わるようになった経緯を教えてください。
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これはもうご縁としか言い表せないのですが、三省堂の辞典編集部の寺本衛さんから声がかかりました。学習者コーパスや、コーパスに基づいた語彙の分析や分類、言語習得過程におけるエラーやコロケーションの広がりなどについて、学会発表や講演をしていたので、それらをご覧になっていて、辞典や単語帳の目玉はこれだ!と思ったんだと思います。また、2003年から NHK「100語でスタート英会話」の講師を務めていて基本語の重要性を説いていたのもあるのではないかと思います。
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『エースクラウン』(初版、2009)が「8年連続で高校・中学の採用推薦がNo.1」(https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dict/ssd10868)となっている秘訣は何でしょうか。
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一番は辞典の特色として基礎語彙とその重要度のメリハリをしっかり伝えるような紙面にしたことと、それを実際の語彙指導の方法の中で、辞書や単語帳を連動しながら使い方を示してあげたことだと思います。出版社主催で、日本中、教員セミナーをして回ったりしたので、単語帳とセットで語彙学習において辞書をどのように使うといいか、ということをある程度伝えられたのかな、と思います。後は、テレビにも出ていたので、英語教員からの認知度も高くなったことが挙げられると思います。寺本さんはカンの鋭い人なので、おそらくそういうことを全部見抜いていて、新しいプロダクトが1セットできそうだな、と思ったんだと思いますよ。
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先生は、執筆者などの協力者はどのような感じで募っているのでしょうか。
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私の場合、辞書以外に携わっている研究プロジェクトが多岐にわたっていて ―それはみな自分の中ではつながっているんですけれども―プロジェクトは専門家集団を集めて私がコーディネートして効率よく進めます。辞書もそのうちの1つです。グランドデザインは自分が描いて、編集部に任せずに自分たちでやるべきことを明確にして、作業の仕方の資料類はこちらでほとんど作って編集部に渡して細かい作業はお願いする。
たとえば、エースの初期の執筆者の大羽良先生(中央大学)は早稲田の院生だった時に私のコーパス言語学の授業に聴講に来ていたんです。大羽さんは構文解析の研究をしていて、プログラミングに精通しparserの処理も巧みでした。それで、彼にお願いして構文データを作ってもらって、それをもとにコラムを作成したりしました。そこから一緒に仕事をしてもらっています。
石井康毅先生(成城大学)は、東京外大の佐野洋先生の研究室出身で、認知言語学が専門ですがperlというスクリプト言語の使い手でした。ある日、佐野先生から、私が小学館とコーパスネットワークのために試作したコーパス検索用の文法(corpus query syntax)を自分たちのプロジェクトに使ってみたいという話があって、その時佐野先生の研究室で院生だったのが石井さんでした。その後、私が外大に移ってきてから付き合いが増えて、CEFR-J のレベル別文法項目を調査するときに、佐野研の文法項目リストを改良すれば効率よくできるのではないかと考えて、石井さんに頼んだりして、チームで一緒にやっている中で、辞典関係の仕事もお願いしている感じです。
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『エースクラウン』は、まさしく投野先生らしい辞書という感じがします。コーパスに基づいて単語のふるまいを緻密に分析し記述することよりも、学習者が英語学習を進める上で、文法や語彙のどの部分につまづくのかを分析して、その点を体系的にわかりやすく提示するところが特徴的だと思います。
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英語のユーザーとして身につけたい力、ゴールというのは個々人それぞれ持っていると思うのですが、英語の運用能力をつけるためのトレーニングはともかくとして、その土台となる文法と語彙をしっかり身につけるための下地作りをするような辞書、主体的に勉強できる人を作れるような辞書を目指しました。もちろん、言葉は個人のものだから、その人が興味を持って優先して身につけたいものがあるだろうけれども、コーパスで語彙全体を見た時に、重要度の仕分けというか、客観的なラインはあって、そういうものを放っておいては英語力の基礎はつかないわけですよね。
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04.-
『プログレッシブ英和中辞典』第5版(2012)の編纂
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編纂に携わるようになった経緯を教えてください。
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私が英国に留学する前から、小学館とは頻繁にやり取りをしていたんですよ。BNC のライセンスを取りたいという相談を受けていて、私がランカスターにいる間も、視察に来られた小学館の方々をオックスフォードに案内したりしました。帰国後、コーパス検索ソフトを作りたい、ということで、SAKURA という検索エンジンを一緒に作って、アジア辞書学会などで発表しました。そこに BNC が商用利用できるようになったので、BNC と COBUILD の Word Bank とを載せて、「小学館コーパスネットワーク(通称SCN)」として、統一した日本語インターフェイスで一般研究者や先生に手軽にコーパスを活用してもらえるようにしたんです。
そして、小学館の辞書にももっと応用していかないと、ということでいくつか実現したことがあります。一つは、『小学館−ケンブリッジ英英和辞典』(2004)の出版です。そして、『プログレッシブ英和中辞典』の改訂、『ユースプログレッシブ英和辞典』の編纂にもコーパスデータを活用できる体制を整えました。その間、SCNの辞典編纂への利用に関して、小学館の編集部の人に10回くらいレクチャーをしました。その後、私がNHKなどの番組作成で忙しくなって、残念ながらSCNをフルに利用した企画は限定的でしたが・・・。
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「まえがき」にある新機軸2点(「意味の全体像を丸ごと提示する」最新の語義記述方式・大規模コーパスの分析結果に基づくコーパス関連情報)の1つ目を瀬戸先生、2つ目を投野先生が担われたと理解していいでしょうか。
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はい。プログレッシブを全面改訂するにあたって、元辞書の良さを引き継ぎながらも最新の言語学の知見を取り入れたものにしよう、という方針がありました。それで、認知言語学の最新の成果を語義記述に取り入れ、一方コーパスを使って記述内容を補強しよう、ということにしたんですね。コーパスの方では、上級向けの辞典ということで、分析がかなり難しい動詞の構文頻度を解析した情報を載せたり、小学館の強みであった科学技術コーパス PERC やその後多分野も含めたESPコーパスの分析をもとにした「分野別コロケーション」の情報を提供することができました。
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05.-
辞書執筆者・編者に必要な資質
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先生は、長らく執筆を続けて経験を積んで編集主幹になったというよりも、新しい辞書を作るための編集主幹として声がかかるというあまり他にみないタイプの編者ですよね。
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私は、辞書に関しては、手伝ってくれと言われてもあまりやりたいと思わなかったんですよね。部分的なお手伝いだったら、私よりも精密にできる人がたくさんいると思うんですよ。私はどちらかというと自分の研究してきた成果をもとに大きな図面を引くのが得意で、単語帳でも何でもイメージの通りに作れるのならやります、というスタンスで仕事をしてきました。自分がやりたいことができるように図面を引かせてくれて、それができるプロを集めて、編集部が好きにやらせてくれるのであれば引き受けます、と。
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辞書執筆者・編者に必要な資質とはどのようなものであるとお考えですか。
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色々なレベルでの資質はあると思いますが、辞書執筆者としては一個一個の細かい項目をどう書いたり、どう作業するか、という点では、従来型の実直な、一見退屈な仕事も忍耐を持って丁寧に仕事ができる、ということが大切になるでしょう。
逆に編者には、この辞書の目的は何か、使用者は誰で、ゆえに何が必要かという目利きができる力が必要です。それには私が研究してきたユーザー研究の知見が大事です。そして実際にはそのような情報にどういう風に重みづけができるか、紙面にどのように反映するか、判断できる力量が大事だと思います。ここで「英語力」に関するイメージが乏しい人はあまりいい発想が出てこない、いい紙面を作れないと思います。
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06.-
辞書学研究とこれからの辞書
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先生は、日本の辞書編纂のいわば徒弟制度のような枠組みには入っておらず、卒業論文が国際的な注目を集め、そこからずっと国際的にもご活躍されて、日本に成果を逆輸入してきたような印象があります。
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ヨーロッパで先に名前を知られるようになった、というのはそうかもしれないです。最初に興味を持ったユーザー研究は日本では行われていなくて、ハートマン先生が始めた User perspectives がまずあって、ハートマン先生が私が行った実証的研究を色々な人に紹介してくれました。それで、最初の頃に書いた論文はユーザー・スタディの初期の研究で引用されることが大変多かったです。Hilary Nesi や Robert Lew は、私の論文を読んで非常に刺激を受けたと言ってくれて、そこからユーザー・スタディをどんどん発展させていって、今や、彼らが第一人者です。Sue Atkins も Euralex で初めて会った時に、名前を見て駆け寄ってきてくれて、あなたのこと知ってる!と。私がやりたかった辞書と実証研究の組み合わせというのを受け入れる土壌がヨーロッパに先にあった、ということかと思います。
国際的なジャーナルに研究成果を発表することでアカデミックに高度な研究を展開するということに注力する研究者も多いですが、私は、そういうのとはちょっと違うんですよね。日本の英語教育を改善したい、という気持ちが根底にあって、自分の研究をどう応用できるかということを常に考えています。欧米で生まれたコーパス言語学も、言語教育にどう応用するか、という形で日本に根付かせてきたと思います。今、世界中でコーパスを利用した Data Driven Learning が注目されていますが、20年以上前に既にコーパスでテレビ英会話番組を作っていたわけですから。
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これからの辞書学研究・辞書はどうなっていくとお考えでしょうか。
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日本は、歴史的に見ると辞書が大変多く作られて、辞書出版に関しては文化的に豊かな国だと言えます。現状では、辞書はオンラインが半分くらいデフォルトになっていて、オンラインで何をするか、という議論がヨーロッパでは盛んにされていて、私らもそうするしか仕方ないとは思いますが、一方で、私が大切にしてきた「日本での」英語教育を改善するための辞書、ということを考えると、向こうで話されていることをそのまま持ってきてもうまく行かないので、テイラーメイドしないといけない。レベル別、目的別などニーズ分析を含めたローカライゼーションが大事になると思うので、その辺の研究が必要になってくるんじゃないかと思います。ただ、全体のパラダイムが変わっているから、ローカライゼーションのやり方も変えないといけないと思うので、従来型の日本の辞書研究だけでいいのかな、というのは感じています。
CEFRのような総合的な外国語教育の枠組みの中で、語彙学習とはどうあるべきかを考え、語彙学習と教材、それをサポートするオンライン・リファレンスの関係という中で考えていくことになるのかもしれません。それが果たして「辞書」と呼ぶようなものなのかどうかはだんだん不透明になっているわけですが。
一方で、レベルというところで考えると、熟達度レベル別に必要な情報に「絞る」という考え方はあまりオンラインでは出てきにくいと思っています。海外の人はあまりそういうことに興味がないんですよね。なぜなら文法も語彙もある程度身についた中級以上の学習者を対象として考えることがほとんどだからです。日本だとそうはいかない。初級レベルの学習者を中級に押し上げてあげるのがとても大事で、そこがうまくできれば日本の英語教育は成功すると思うんですよね。そのためには、基礎レベルの語彙の学習は、やり直しを含めて、どうあるべきか、何をすべきか、をしっかりと考えていく必要があると思います。
日本の英和辞典の美しいところは、限られたスペースでどれだけ情報をわかりやすく出すかという苦心を重ねてきたところにあって、その伝統は残したいなと個人的は思います。紙辞書を、自分の辞書を含めて、出し続けて欲しいのはまさにその情報の精選という部分があるからですよね。手で持って引いて、閲覧した中で見えてくる世界、そこにはまとまった知識の巧妙な美しい伝達の仕方があるんじゃないかと思うんです。なんでもかんでも載っているのは便利なようで、収拾がつかないし、覚えないんですよね。使う人が知識を取り込めるようにやさしく提示することが重要ですよね。
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07.-
インタビューを終えて