吉村先生も辞書執筆者のご多分に漏れず大変に謙虚な方で、『ウィズダム英和辞典』の実現におけるご自身の功績の大きさをあまりご認識されていないのではないかと…。辞書のデザインに関しては「井上先生と、そして赤野先生が」と仰るのはその通りなのかと思いますが、外大コーパス、三省堂コーパスの構築作業を担われ、大量の原稿を執筆・校閲されたことを伺って、ウィズダムの出版と発展を可能にした立役者のお一人であることをー『ウィズダム』関係者の中では知らない方はいらっしゃらないのだと思いますがーより広く世間に認知されるべきことかと思いました。
吉村先生は、何かに興味を持ち、好き!となると一直線の方で、それが、バレエ、英語、辞書、であったことが分かりました。先生は「オタクなんですね。」と仰いましたが、オタク万歳。そして、猫を愛する私たちで猫に特化した英和辞典を作りたいね!という話で盛り上がってインタビューを終えました。本当に楽しい時間でした。
吉村由佳
Yuka YOSHIMURA- 1964年
大阪府大阪市生まれ
- 1986年
京都外国語大学外国語学部英米語科卒業
- 1989年
京都外国語大学大学院外国語学研究科英米語学専攻修了
- 1989年
京都外国語大学情報処理センター嘱託研究員(~ 1990)
- 1990年
非常勤講師として複数の大学で教鞭をとる
- 1999年
『ウィズダム英和辞典』編集委員
『ウィズダム英和辞典』初版から編集委員として編纂に携わる。
『ウィズダム英和辞典』初版から編集委員として編纂に携わる。
- 1964
大阪府大阪市生まれ
- 1986
京都外国語大学外国語学部英米語科卒業
- 1989
京都外国語大学大学院外国語学研究科英米語学専攻修了
- 1989
京都外国語大学情報処理センター嘱託研究員(~ 1990)
- 1990
非常勤講師として複数の大学で教鞭をとる
- 1999
『ウィズダム英和辞典』編集委員
Interview
インタビュー2022.08.26 実施
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01.-
辞書執筆者になるまで
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吉村先生は最初から英語がお好きだったのでしょうか。
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そうですね。父が海外の音楽や映画が好きで、小さい頃から、英会話の英国人の先生が自宅に時折遊びにいらっしゃるような環境で育ったので、英語に対する憧れや興味が自然に芽生えました。英語の勉強を始めたのは中学に入学してからですが、洋楽(ロック)が好きだったので、歌詞カードを見て、歌詞の意味を分かるようになりたいと思う気持ちが学習の動機付けとなりました。英語が好きだから勉強をする、勉強をするから成績も悪くない、英語の勉強がより楽しくなる、という良い循環が生まれていたと思います。ただ、現在のように学校にALTがいるわけでもなく、大学に入るまでは英語を母語として話す方との交流があるわけではありませんでした。
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英語という言語を勉強したいという明確な目的を持って、京都外国語大学外国語学部英米語科に進学を決められたのですね。
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はい。進学先は、習い事(クラシックバレエ)との関係で京都に行くこともあり、場所としては京都がいいな、と考えていました。英米語学科でしたので、英文科よりも、言語学の授業が充実していたと思います。
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京都外大で赤野一郎先生と運命の出会いがあるわけですが、赤野先生のゼミ生であったわけではないと伺っています。
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赤野先生は私が入学した年度に着任されましたが、クラス指定の授業では、赤野先生にご担当いただくことはありませんでした。3年生の時に、大学主催のアメリカ語学研修(1ヶ月)に参加した際に、引率教員が赤野先生で、そこで初めてお会いしました。アメリカでみんなで楽しく弾けているという環境下、先生もお若かったので、いいお兄さんくらいの感覚でした(笑)。研修は大変有意義で、ちょうどバレエに区切りをつけた時でもあり、その時の私にとって英語が一番面白く、打ち込むことができるものとなりました。もちろん、赤野先生の影響もあります。
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学部生の時にはどのような勉強・ご研究をされていたのですか。
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当時は、英語学を専門とする先生方はお若い方が多く、3・4年生のゼミは、地域研究や文学をご専門とする先生方がご担当されていました。ですので、興味関心は英語学にあったのですが、地域研究(アメリカ)のゼミに入って、卒業論文はノンバーバル・コミュニケーションを扱いました。赤野先生含めお若い先生方は、2・3年生を対象とするプレゼミをご担当されていたので、そちらのゼミにお邪魔していました。ですので、赤野先生に単位をもらったことはありません(笑)。
卒論は必修ではなかったのですが、英語で書くことが義務付けられていました。英作文の授業はありましたが、卒論のような長いものを書くのは初めてだったので、赤野先生にドラフトを見ていただいたところ、言葉を失うくらい真っ赤になって返ってきまして、それが本当に衝撃的でした。この動詞はこのような目的語を取るのか、この部分はとても良い英語だがどこかから引用してきたのではないか、このような言い方はしない、というようなコメントで埋め尽くされているのを見て、私はこんなに間違った英語を書いていたのかとショックを受けました。そこで、辞書をきちんと引いて、動詞であれば選択制限を確認し、例文をしっかり読んだ上で、正しい英語を書かなくては、と初めて強く意識するようになりました。
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当時は、どのような辞書をお使いでしたか。
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研究社の『新英和中辞典』をみんな持っていましたね。また、『プログレッシブ英和辞典』が出てきて、評判を耳にしていましたので、『プログレッシブ』も使っていました。英英辞典(OALD)も、見るには見ていましたが、英和ほどの使用頻度ではありませんでした
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大学院に進学を決められたのはなぜでしょうか。
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就職をして一般企業で働くというイメージがどうにも持てなかったので、まずは専攻科という学部卒業後に行く1年間のコースに入りました。その間も、学部の変形文法の授業(小野隆啓先生)等に顔を出せてもらったりしていました。
この1年のコースを修了してもなお、大学に残ることしか考えられず、修士課程に進むことにしました。英語学で論文を書ける唯一のゼミということで、日下部徳次先生のゼミ—先生はシェイクスピアや構造言語学がご専門なのですが—で勉強をしていました。指導教授の専門に、自分の学問的興味を寄せる形で(笑)、修士論文では、ヘミングウェイの短編小説内の会話を語用論的に分析する、ということをしました。
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修士課程を終えられた後のキャリアについては、どのようにお考えだったのでしょうか。
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修士課程を終えてもなお、このまま大学に残るにはどうしたらいいかと考えていたところ(笑)、ある程度パソコンの知識があったので、赤野先生や小野隆啓先生が中心になっていた情報処理研究所でアルバイトとして、その後、嘱託研究員として雇っていただきました。研究所で仕事をするうちに自然とパソコンをそこそこ使えるようになり、教員としてのキャリアのスタートは「情報分析方法論」のTAとしてパソコン実習のサポートに入ったことで、英語教員としてではありませんでした。
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現在の国際言語平和研究所
https://www.kufs.ac.jp/irislp/about.html
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パソコンを「自然とそこそこ使えるように」と仰いますが、当時ですと、相当な勉強をしないとパソコンを使えるようにはならなかったと思いますが…。
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修論を書いていた頃にはパソコンを使っていて、赤野先生が他の先生方とやろうとしていたことと、私のできることがちょうどマッチしたように思います。パソコンの勉強も面白くて、楽しんで勉強していました。1990年代に入る前から、赤野先生とのやり取りもパソコン通信がデフォルトで、先生がバーミンガムに行かれている間も、特段の不便を感じませんでした。
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1988年に赤野先生が、情報処理センターのセンター長になられて、外大コーパス(KUFSコーパス)の構築をスタートされましたが、コーパスの構築において吉村先生が大きな役割を果たされたのですよね。
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まだ、コーパスという言葉が一般的ではなかった頃です。赤野先生が色々と集めてこられたデータがありました。初のデータは、ディスクではなくて、映画のテープのような、オープンリールテープに入っていました。
コーパスのデザインに関しては、赤野先生が設計をされました。私は、先生のご指示のもと、実際のデータを入力する作業をしていました。紙のデータをOCRで読み取り、当時はまだ読み取りの精度が低かったので一通りプルーフリードして、最低限のタグを付けたファイルを作る、という作業です。そして、その作業をアルバイトスタッフ全員が均質に行えるようマニュアルを作成して、指導をすることもしていました。
赤野先生がバーミンガムに行かれている間も、日常生活においてしか入手できない英語、例えば会話や広告に出てくる言語など—今ではインターネットで簡単に手に入りますが—をコーパスに入れたい、ということで、そういったデータを収集され、それにMiscellaneous というタグを付けていたような記憶があります。
まだバブル景気の最中で、特にパソコン関連のことには割と潤沢に資金がついたので、赤野先生もご自身で買えないようなものも、研究所の予算で買うことができて(笑)楽しそうでしたし、私もコーパスが段々と形になっていくのを楽しく感じていました。
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02.-
『ウィズダム英和辞典』の編纂
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赤野先生と外大コーパスをゼロから構築された吉村先生が『ウィズダム英和辞典』の編纂に携わるのは至極当然と思いますが、実際はどのような感じで声をかけられたのでしょうか。
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井上先生と赤野先生のお二人で『ウィズダム』を作ろう、という話がまとまった時に、チーム編成もゼロから行われました。小西先生の直接のお弟子さんにあたる方々は、大体他の辞書のお仕事をされているためお声をかけるわけにもいかず、赤野先生が京都外大の同僚の先生方にお声をかけられたりする中で、私も声をかけていただいたような感じです。辞書執筆の経験がある人はとても少なく、全体的にとても若いチームとしてスタートしました。
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辞書の執筆にあたり、どのようなトレーニングを受けましたか。
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原稿執筆のための研修会が、関東と関西とで、複数回開催されました。参加者が皆、同じ見出し語の原稿を書き、それに井上先生、赤野先生がコメントをされるといった形式です。文字数の制限についてや、例文の書き方など、様々なことを学びました。半年から1年くらいだったでしょうか、結構な期間行ったと思います。
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吉村先生は初版から編集委員としてお名前が上がっています。これは、最初から役割が決まっていたわけではなく、結果的に編集委員と呼ぶに相応しい方々である、と赤野先生に教えていただきました。
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やはり、執筆する量にはどうしても個人差が出てきました。より多くの原稿を書くと、より経験値が上がり、より重要な見出し語の執筆を任されるようになり、結果的に仕事内容に差が生まれて、「編集委員」として名前を出していただいた、という感じです。
また、三省堂コーパスを作成していた時、私は東京にいて物理的に編集部に近いこともあり、編集部に出向いて、コーパス構築のお手伝いをしていました。私自身もアルバイトとして(笑)、アルバイトの人たちにテキストをスキャンしてもらって、ちょうど京都外大の研究室で行っていたことと同じようなことをしていました。
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先生は「コーパスの窓」の執筆をされていますが、あのコラムはどのようにして生まれたのですか。
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「コーパスの窓」は2版の時にできたのですが、初版の時も、類語の説明などに「コーパス」というロゴをつけたコラムがいくつも色々なところにありました。初版は、本当にゼロから作ったので、良い意味でも悪い意味でも、すごく凸凹した辞書であったと思います。コーパスの情報も、色々なところに散らばっていたので、それらを整理し直し、分かりやすく提示しようとしたのが「コーパスの窓」です。
初版のあちらこちらにあった記述をまとめ、書式などを整え、もう一度コーパスで検証して、書き直したものもありますし、新規に書いたものもあります。この仕事もとても面白かったです。
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WISDOM in Depth #8「『コーパスの窓』を開けると…」
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/wisdom-in-depth08
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これから『ウィズダム』はどうなっていくでしょうか。
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辞書編集部はどこも厳しい状況に置かれていますが、三省堂として『ウィズダム』の編集を止めるわけにはいかない、と考えていると思います。辞書の三省堂ですから。ただし、この辞書の売れない時代に、どのような形で、ということはこれからの課題だと思います。
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03.-
辞書編纂と辞書編集者
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辞書編集・執筆者に必要な資質とは、どのようなものであるとお考えになりますか。
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真面目であることだと思います。辞書の約束事をしっかり守って、与えられた期日内にうまくまとめるという真面目さが求められると思います。見出し語数は何万という単位なので、平均点の仕事ができる人が、結果的に大事になってきます。研究者として優れていてきちんとした論文を書ける人が必ずしもよい辞書の原稿を書けるとは限らず、英語と日本語に深い理解があることも確かに重要ですが、それ以上に必要な資質として、調べること、その結果をまとめるのが上手なことがあげられると思います。
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先生ご自身が長年辞書編纂のお仕事を続けてこられたのはなぜでしょうか。
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仕事だから、でしょうか。そして、基本的に英語が好き、日本語も好き、言葉が好き、細かいことが好き、ということが大きいかもしれません。初版の仕事をしていた時に、どのくらいの時間をかけてどのくらいの仕事をしたらどのくらいのお金になるのか、全く分かりませんでした。出来上がった時に自分の時給を計算してみたら、悲しくなるような金額でした(笑)。計算してはいけないですね(笑)。ですので、愛がないとできないとも思います。先ほど申し上げた、真面目であること、というのも私に向いていたのだと思います。
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これからの学習英和辞典はどうなっていくとお考えですか。
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紙媒体はなくなりはしないと思います。コロナ禍において、改めて紙の良さを実感しました。デジダルで可能になることもたくさんありますが、手に取って、目に見えるアナログの情報の方が断然理解しやすく、記憶に残ると実感しました。アナログな紙の辞書は最低限はないといけない。学生さんでも、クラスに2~3人と数は少ないですけれども、紙辞書の良さを知った学生さんは、紙の方がいい!と言ってくれます。
けれども、デジタルとのコラボは必須だと思います。『ウィズダム』はアプリもWeb版もそれなりに使い勝手がよく、私も全て使っています。現在は、一番大変なコンテンツを作成する出版社(編集部)が、そのコンテンツを電子辞書やアプリ制作会社に提供していますが、コンテンツの価値を考えると非常に安く売ってしまっている印象です。エンドユーザーは辞書をタダだと思っていますからね(笑)。コンテンツを作成している出版社自身が、そのコンテンツを複数の媒体で使えるように事業を展開するのが理想なのではないかと思います。そういった方向に進まないと、紙の辞書が売れない、利益を出せなくて出版社が縮小または潰れる、辞書は改訂されない、ということになってしまいます。
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過去に出版された英和辞典を辿ることによって様々なことが学問的に明らかにされていることを考えると、これからも英和辞典が改訂され続けることは大事だと思います。
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英和辞典は、英英辞典よりも価値が低い、というような認識があるような気がします。英語という外国語を母語で学ぶことができることがいかに大事か、あまり認識されていないように思います。もちろん、英英辞典を積極的に使うことはそれはそれでいいのですが、世界的に見て、英和辞典はバイリンガル辞書として非常に優れています。自らの母語で英語を(十分に)学べない国の方が圧倒的に多い中で、母語で英語を高水準で学べることがどれだけ恵まれたことであるのか。英語を日本語で学べることの利益についてもう少し理解が欲しいと思います。
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今の学生さんは、最初から電子辞書やスマホがあるので、紙の辞書の厚さや、何巻にも渡る辞書を見て見出し語の数の膨大さに驚くというような感覚や、複数の辞書を持ち運んだり引いたりする物理的な不便さを味わっていないと思うので、見ている世界が私たちとはかなり違うのだろうとは推測できるのですが、どのような感じなのでしょうね。
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学生さんに使用している辞書を尋ねると、辞書の書名ではなく、電子辞書のメーカーを答えますよね。辞書の物理的な分厚さなどは認識していないでしょうね。検索して出てきた情報が、一体どのような辞書に格納されているのか、ということに意識は及ばないでしょうね。
出版業界の方から、かつては主力の一つであったコンパクトタイプの辞書が、今、全く売れない、と聞きました。昔は小さかったのが便利で良かったのが、今は小さくて持ち歩ける紙の辞書に大した利点がなくなってしまったためですよね。
紙を基本としてきた作り手と、デジタルが基本となる使い手の間には、大きな隔たりがあるように思います。作り手が使い手に寄っていくのか、使い手に寄ってきてもらえるように指導をするのか、互いに歩み寄って良い着地点が見つかると、それが教育・学習上効果的で、かつ売れる辞書の形になるのでしょうか。昔は良かった、という懐古主義ではなく、アナログの持つ良さが解明されるといいな、と思います。
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04.-
インタビューを終えて