斎藤先生のことは、岩崎研究会の読書会で実際にお会いする前から竹林先生から散々お話を伺っていたので、はじめてお目にかかった時には「これがあの斎藤先生!」と伝説の人物に会えたような気分だったことを今でも鮮明に覚えています。竹林先生は何かにつけ「斎藤君は本当に優秀でー君とはちょっと違うんだな」「僕なんかよりも英語が上手で嫌になっちゃうんだよな」「若い時はフランス人形のようにかわいくて」と不適切発言含めて斎藤先生のお話をされていました。斎藤先生を研究者としてはもちろん、その事務能力の高さや、研究会の裏方としての働きぶりを含めたお人柄を高く評価されていました。
斎藤先生はご一緒する場があっても、周囲のためにずっと動いていらっしゃる方なので、先生ご自身のお話をゆっくり伺ったのは初めてでした。継続してお世話をしなければ枯れてしまう植物のように、研究の場も、ただ会を設けてもそこにきめ細やかな配慮がなければ途絶えてしまう。表だった主義主張があるわけでなくとも、斎藤先生のあり方そのものが一つの哲学であると感じます。そして、竹林先生は斎藤先生をお弟子さんとして持つことができて本当に幸せだったな、としみじみ思いました。常に「斎藤君」と耳にしていたわたしでしたが、斎藤先生ご自身のお話を直接お伺いすることができて本当に光栄でとても楽しい時間でした。
斎藤弘子
Hiroko SAITO- 1982年
東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業
- 1985年
東京外国語大学大学院外国語学研究科ゲルマン系言語専攻・英語学 修了
- 1988年
東京外国語大学外国語学部助手
- 1991年
東京外国語大学外国語学部講師
- 1993年
ロンドン大学ユニヴァーシティーコレッジ大学院音声学・言語学科修了
- 1996年
東京外国語大学外国語学部助教授、2008 教授
- 2009年
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
『ライトハウス英和辞典』、『コンパスローズ英和辞典』など多くの英和辞典の執筆、編集に携わる。特に、アクセント表記をご担当される。

『ライトハウス英和辞典』、『コンパスローズ英和辞典』など多くの英和辞典の執筆、編集に携わる。特に、アクセント表記をご担当される。
- 1982
東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業
- 1985
東京外国語大学大学院外国語学研究科ゲルマン系言語専攻・英語学 修了
- 1988
東京外国語大学外国語学部助手
- 1991
東京外国語大学外国語学部講師
- 1993
ロンドン大学ユニヴァーシティーコレッジ大学院音声学・言語学科修了
- 1996
東京外国語大学外国語学部助教授、2008 教授
- 2009
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授

Interview
インタビュー2024.12.04 実施
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01.-
辞書編集者になるまで
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先生は幼少期から中学ご卒業までのほとんどを英語圏で過ごされたということですが、英語(学習)との出会いについて教えてください。
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5歳のときに父の転勤でアラスカのアンカレッジに行くことになり、英語は何もわからないままに幼稚園に入りました。その年齢なので割と自然に英語を覚えたのだと思います。ただ、親は心配して少し英語を教えたりしたのでしょうね。幼稚園の先生に私に英語を教えないようにと言われたらしいです。私が自然に身につけた英語と親に教えられた英語が違うことがはっきりとわかったようで—発音が全然違うからね—そこからは本当に自然に英語を覚えていったのだと思います。「帰りの時間ですよ。」というような表現を、その場面と動きの中で覚えていったりしたのかと思います。
幼稚園を卒業して、小学校にみんなと一緒に入学しました。そこで英語の読み書きを習い始めました。アルファベットから始めてフォニックスも学ぶ、というように一からの勉強だったので、困ることはまったくありませんでした。アンカレッジですから、アラスカ最大の都市といっても人口も少なくて、1クラスが20名程度のアットホームな雰囲気の学校でした。先生はけっこう厳しい、でも良い先生でした。
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『大人の英語発音講座 新装復刊』(2023、研究社)の著者紹介にありますが、一生懸命 purple の発音を練習されていたんですよね。
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「発音」というものを意識していたわけではないのだけれども、ただ purple がとにかく言えない、言いにくい。なんで言えないんだろう、なんで言えないんだろう、と何度も繰り返して声に出してみて、コツがつかめると「あ!こうすればいいのか。」と思ったりしていました。
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日本語の勉強はどうしていたのですか。
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今とは違って、日本の幼稚園で日本語の読み書きは勉強していませんでしたから、母親が自宅で教えてくれていました。父の仕事で赴任していたわけですから、3年か4年で日本に帰ることはわかっていました。当時は、日本に帰った時に、帰国子女を受け入れる特別枠などなかったので、受験のときに困らないようにちゃんと勉強しておかないといけないわけです。
母にひらがなを教わった後は、祖父によく手紙を書いていました。手紙を書くのが好きでしたし、祖父も頻繁に返事をくれたので、祖父との手紙のやり取りで自然に読み書きができるようになりました。母親のチェックが入るので、「ママとパパがけんかをしています。」なんて書くと、ここは書き直しなさい、となるわけですが(笑)
小学校3年生の10月か11月頃に帰国しましたが、小学校3年生で習う漢字を書けるまでには母の手も回っていなかったので、非常に苦労しました。そこから2年程東京の学校に通っている間に一生懸命日本語を勉強して、かたや英語は忘れていって、という生活でした。
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その後またお父様の転勤でオーストラリアに行かれたのですね。アラスカの英語とオーストラリアの英語の違いに戸惑われたりしたのでしょうか。
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自分では驚くようなことはありませんでした。驚けるほどの下地もその頃はないわけです。英語は忘れてしまっているところもありましたし、知らない単語もある。それはオーストラリア特有の語彙ということではなく、年齢に伴う使用する語彙の違いですよね。発音に関しては、自分で気がつくことはなかったのですが、わたしが話すと時々、クラスメイトが、何か変だな、何か違うね、というような反応を見せることがある。それは「アメリカ英語だね」、というような指摘ではないのですが、発音が違うよね、などとちらっと言われると気になって注意をしてみると、class や classroom の発音が違うことに気がついて、みんなの真似をし始める、ということをしていました。
中学に行く頃にはすっかりオーストラリア英語になっていたかと思います。それでも、America/American の母音の発音が違うね、と言われたことがあって、そんな細かいところまで気にするんだ、ということに気がつきました。当時は、「発音に対する意識」というものを明確に持っていなかったと思いますが、振り返って考えると、あくまでも振り返ってですが、アラスカにいたときに purple の発音を繰り返し練習したように、小さな頃から無意識に発音に興味を持っていたのかもしれないですね。
ただ、「英語」よりもそれ以外のことで手いっぱいなところもあったので、当時は英語という言語を意識的に考えることはなかったように思います。国内でも転勤族の子どもは経験があると思いますが、新しい学校に来て、最初は周囲をキョロキョロと観察して、誰が本当の友だちになれるのかな、最初に話しかけてくる人には少し気をつけないといけないな、とか(笑)
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竹林先生から斎藤先生は妹さんとは英語でやり取りされていると伺っていたのですが、いつ頃から妹さんと日常会話を英語でするようになったのでしょうか。
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妹とは3歳離れているので、アラスカにいたときには、妹は幼稚園にも学校にも通わずじまいでした。ですので、その頃は数少ない日本人の友だちと妹も一緒にお互いの家で遊ぶときは日本語でした。アラスカは寒いので外で遊ぶということがあまりないんですよね。学校の友だちと遊ぶときはもちろん英語なわけですが、妹とは日本語で話していました。そもそも妹は話し始めたばかりでした。
父は仕事で赴任していたわけですが、英語はほとんどできなかったように思います。母は行く先々で英語を習っていたけれども、習い事といった程度でした。ですので、親は英語がわからないのだから家で英語を話してはいけない、というように思っていて、家では日本語で話していました。
オーストラリアに行ったときには妹も学校に行く年齢でしたから、そうすると近所に住んでいた姉妹と私たち姉妹で一緒に遊ぶような場面では、英語で話すことになりますよね。そこから妹と話すときには自然に英語になりました。ある時食卓で妹と英語で話していたら、母親が突然「そんなことないわよ。」と会話に入ってきて(笑)。親は英語がわからないと思っていたのにわかっていたのか、とおかしかったことを覚えています。妹とはいまだに英語で話をします。日本語で話すのは何か不自然な感じがするんですよ。
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オーストラリアから日本にはいつ戻られたのですか。
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中3の秋に帰国して、オーストラリアではもう中学校を卒業していたのですが、日本では義務教育期間だったので、最後の1学期だけ学校に通うことになりました。世田谷区の社宅に戻ってきたので、小学校時代の友だちがそのままそこにいて、その意味においては環境は大きく変わらないものでしたが、帰国子女の受け入れ枠があるわけでもなく、普通に受験をしなくてはいけなかったので、受験勉強はそれはそれは大変でした。英語はほぼ満点が取れるものの、数学が苦手で苦労しました。
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ある程度自由に使える「英語」を学問として学びたいと思われたのはなぜでしょうか。
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英語はもうできるのになんで?と言われることが多かったのですが、自分自身はそれは全然違うな、と思っていました。英語を話すことはできても、中学3年生までの英語でしかないわけです。話せるけれど子どもの英語です。
英語は話せましたが、好きも嫌いもなく、言語として好きなのはドイツ語でした。オーストラリアの中学校ではフランス語が必修科目でしたが、それに加えてドイツ語も取っていました。半年だけラテン語も勉強しました。フランス語も面白いと思ったのですが、私は先生に影響を受けやすく、ドイツ語の先生が私が憧れるタイプの人だったんです。テニスのコーチもしていたイギリス人の女性でした。それでドイツ語は必ず1番になると思ってがんばって勉強してましたね。ドイツ語は好きなので、勉強の対象とするよりも、外国語として履修して楽しみたいと考えました。
鈴木孝夫先生の『ことばと社会』(1975)などを読んで、ある特定の言語、というよりも、言語に興味を持っていました。文学を研究したいとは思わなかったのですが、当時は文学部がほとんどで外国語学部というのはあまりなかったんですね。それで色々と探している中で、東京外国語大学ならやりたいと思っている勉強ができるのかな、と思いました。本当はICUに行きたかったんですけどね。
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社会言語学にご興味があったのに音声学の道に入ったのは、やはり竹林先生に捕まってしまったからでしょうか(笑)。
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そうですね(笑)。あとは、社会言語学が学問領域としてまだ確立されていなかったこともあります。助手か講師になった頃に参加した日本言語学会で、今年を社会言語学元年としましょう、というような話がされていた時代ですから。
竹林先生に出会ったのは、2年生になって、竹林先生の一般音声学と英米語学科必修の英語音声学を履修したときです。どちらの授業であったかは忘れてしまいましたが、試験の答案を出しに行ったときに、私ともう一人が、後でちょっと研究室に来てくれと声をかけられて。なんだろうと思って行ってみると、先生から研究社の『現代英和辞典』の改訂版を出すので、辞書の仕事をアルバイトでしないか、とお話がありました。執筆というわけではなく、見出し語選定のための下仕事で、メリアム・ウェブスターの辞書と照合をして固有名詞をチェックするようなものでした。出版されてみれば、それが『リーダーズ英和辞典』になっていて驚きました。
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竹林先生から斎藤先生の答案が素晴らしかったので声をかけた、と聞いています。
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竹林先生は、徐々に親しくなって、それからこういった仕事の話を持ち出す、というのではなくて(笑)、答案などを見て声をかけるということをよくされてましたね。もう一人の方は、NHKのワールドニュースの通訳としてご活躍されていますが、辞書の手伝いをしたからといってその後竹林先生のところで音声学を専攻して卒論を書いたわけではありませんでした。ですので、先生も強制するようなことはなかったんですね。
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卒業論文はやはり音声学で書かれたのでしょうか。
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卒論は必修ではなかったのですが、私は大学院への進学を考えていたので、書いておこうと思っていました。竹林先生のところで卒論を書きますと言った覚えはあまりないんだけれど(笑)自然にというか、いつの間にか、音声学で書くことになりました。当時教務補佐をしていた牛江ゆき子さんには、竹林先生のところで音声学で卒論を書くのが嫌ならそう言ってもいいのよ、と言ってもらっていたりもしたのですが(笑)。根底には小さい頃に一生懸命発音の練習をしていたり、英語の異なる方言の国で生活したことがあったのかもしれません。卒論は成句のアクセントについて書きました。たとえば、get off や put on というような句動詞が名詞の目的語を取るとき(put on one’s clothes, put one’s clothes on)にさまざまなアクセントの可能性がある中で、ネイティヴの人に実際に発音してもらってどういう傾向があるかを分析しました。
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なぜ大学院へ進学しようと思われたのでしょうか。
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子どもの頃から教師になりたくて。アンカレッジは寒く、学校から帰ってきても外に遊びに行くことはしないので、家で妹や近所の友達と「学校ごっこ」をして遊んでいました。私が先生役で、妹や近所の子たちが生徒役です。好きな先生の真似をして教えるわけですが、テストまで作って、解かせていました。テストを作るために親にクリスマスプレゼントでおもちゃのタイプライターを買ってもらったり。小学3年生が、ですよ。駐在で来ている家族の子どもに英語を教えてあげていたので、その子たちの親には喜ばれていました。
アラスカで出会った小学校の先生もオーストラリアのドイツ語の先生も厳しめで、やさしいとか友だちのような感覚で親しみが持てるタイプではなかったのね。私は先生を観察するのが好きで、なぜこの先生はわたしに勉強をしたいと思わせるんだろう、とか、特定の生徒をかわいがったりすることもせずに公平だな、とか冷静に分析をしていました。
最初は小学校の先生になりたかったのですが、自分が通うようになると中学・高校の先生がいいなと考えるようになり、高校生を教えるには大学院に行かないといけないだろうと思っていました。大学では教職課程を取って母校へ教育実習にも行きました。その高校から声もかけていただいたのですが、まず大学院で勉強をしてきます、と教職に就くことを前提にしていました。修士課程に進学した後は、大学で教える道をなんとなく歩み始めたように思います。
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ロンドン大学(University College London)へ留学して音声学のコースで学ばれたのはどのようなきっかけがあったのでしょうか。
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外大で勤め始めて講師になった頃に、文部省(当時)の若手研究者向けの在外研究制度を利用して行きました。1年間海外へ行く機会を得られたので、せっかくならしっかり勉強しようと思い、かつてはダニエル・ジョーンズ(Daniel Jones)先生が教鞭をとっていた、音声学だけでMAが取得できるコースに入り、帰国後に論文を提出しました。
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02.-
音声学と英和辞典における発音・アクセント表記
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最初の辞書のお仕事は発音とは関係のない下調べだったということですが、その後『ライトハウス英和辞典』からは発音表記をご担当されたのでしょうか。
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『ユニオン英和辞典』の第2版を改訂して『ライトハウス英和辞典』(1984)になるときから本格的に辞書の仕事に関わるようになりました。『ユニオン英和辞典』には成句のアクセントの記載はすでにあり、それはとても画期的なことだったと思うのですが、卒論で成句のアクセントを扱ったので「これはちょっと違うのではないでしょうか。」などと竹林先生に疑問を口にしたら、「じゃあ、成句のアクセントは君に任せる。」ということで(笑)。そこからは、発音と言っても私はほとんどアクセントを付けています。『ライトハウス英和辞典』のアクセントは全部一人で付けました。研究社の『大英和辞典』は大プロジェクトで当時の弟子たち全員で手分けして発音表記を行ったので、最初は発音の仕事をしていましたが、やはりアクセントを付けることも必要なので、結局アクセントを付けていました。
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アクセントを付けるにあたりどういったご苦労がありましたか。
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現在のようにYouTubeなどの実際の音声を聞く手段もほとんどなかったので、他の辞書を参考にしたいのですが、参考にしようとしても成句にはアクセントが付いていないことがほとんどでした。インフォーマントの方に聞いても、ご本人がその成句を知らなければ「こうかな?」というように不確かです。
『ライトハウス英和辞典』では、外大にいらした客員教授の方々にご協力いただいていました。イギリス英語はウィリアムズ(Stephen N. Williams)先生、アメリカ英語はベック(Thomas E. Beck)先生です。リストを持っていって発音していただいてましたね。
そのうち他の辞書も成句にアクセントを付けるようになってきました。ロンドン大学での指導教員であったマイケル・アシュビー(Michael Ashby)先生は OALD などオックスフォードの辞書の発音監修(phonetics editor)をなさっていたのですが、先生に『ライトハウス』を見せたところ、成句のアクセントを見て、「これいいね!」とおっしゃっていたので、もしかするとそれが一つのきっかけで OALD でもアクセントが表記されるようになったのではないかと思っています。ネイティヴからすると成句のアクセントなんて当たり前過ぎて間違いようもないだろうと考えるのかもしれませんが、外国語として話す方からするとそうではないですよね。
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斎藤先生が「アクセント職人」だということをはじめて知りました。
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わたしは自分自身のことをレキシコグラファーとは思っていなくて、音声学をやってきて、その応用で発音に関して辞書に関わってきたと思っています。竹林先生は、辞書全体の企画もされましたし、その時々の発音の傾向もチェックしながら音声学の知見に基づいて発音表記の方針を決定していらしたので、音声学者であり辞書学者であったと思います。
最初から辞書が好きというわけでもなく、ただ、続けていくうちに気づくこともありました。竹林先生は、辞書の発音の仕事をするときに機械的な作業として行うのではなく、気をつけて行えば、最近はこういう傾向があるんだとか、英米でこんな違いがあるんだとか、必ずルールに気づくことがあるから、辞書の仕事から音声学の論文が書けるような仕事の仕方をしなさい、とおっしゃっていました。そういう仕事の仕方をしなくてはダメだよ、と。これは、語義や用例を執筆する人についても同じで、辞書の仕事をきっかけにして論文が書けるようにしなさい、ということは強くおっしゃっていましたね。
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『ライトハウス英和辞典』の発音表記における特徴はどのようなものでしょうか。
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竹林先生は「学習者にとってわかりやすい」ということをとても大事にしていました。たとえば、『リーダーズ英和辞典』は同じ研究社ですが、bird の /ɚː/ の音を表すのにhooked schwa(かぎ付きのシュワー)を用いず、/əːr/ という表記をしています。この表記にすると/ɚː/ という音が /əː/ と /r/ の2音から成っていてあたかも途中で口の形を変えるかのような印象を学習者に与えてしまう可能性があります。竹林先生は「学習者にとってのわかりやすさ」を信念としていたので、『リーダーズ』含め、hooked schwa を用いない辞書の仕事はやっちゃだめだ、やるなら破門するぞ、と冗談ではありますが(笑)おっしゃっていました。
同様に、eat や heat の長母音と hit の短母音は母音の「質」が異なるので、同じ /i/ の記号に長音記号を付けるのでは、同じ音が短いか長いかだけの違いだという誤った印象を学習者に与えてしまうのですが、昔の多くの辞書や教科書ではそうなっていました。多少理論的には余剰性が高くとも、学習者のことを考えて短母音にはスモールキャップの /ɪ/ を使うことが竹林先生の辞書では徹底されていました。
竹林先生がいらっしゃらなくなってから、改訂作業における発音の優先順位が低く、あまり力を入れてもらえなくなったように思います。発音の作業は、当たり前ですが、見出し語が決まらないとできないので、編集作業段階において最後の最後になってしまいます。新語の発音だけを追加すれば良いわけではなく、発音体系に起きた変化をどの程度取り入れていくのかどうか検討をすることを含めて、全体の見直しが本当は必要です。
『ジーニアス英和辞典』の南條健助先生もこだわりを持ってお仕事をされている方だと思います。アメリカ英語では r の前と l の前では母音が変化してきているのですが、それを記述に反映しています。たとえば、carrot の最初の母音は /æ/ ではなく /e/ が先にきています。law も米音として /lɑː/ を記述しています。 どの時点で /lɔː/ ではなくて /lɑː/ にするのか、その辺の判断が大事なのだけれども、一般的にあまり注意が払われていないように感じます。『ライトハウス』の第7版では、そういった変化を反映することはできていません。私にもっとやる気があって最初から取り組んでいれば違う結果になったと思うのですが。
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竹林先生から音声学の薫陶を受けた斎藤先生ですが、何か異なる考えを持つようなことはなかったのでしょうか。
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確かに音声学のわかりにくさゆえに、先生が違うのではないか、と思ったことはあるのですが、勉強を続けていって自分の理解が進むと、先生がおっしゃっていたことの正しさがわかるようになるというのでしょうか。また、先生が違うのではないかと思うことがあっても、先生は「何を言っているんだ。これでいいんだ。」と押し付けるようなことはなく、「そうだと思うなら考えてみなさい。」とおっしゃってくださいました。
音声学を理論と捉えない人が多くて、「自分は理論が得意ではないから音声学をやります。」という人もいるのですが、音声学は、事実を記述するだけではなく理論的に難しいところがあるんです。わかるようになるまでなかなか大変な学問だと思います。竹林先生は留学経験はありませんでしたが、NHKの放送などを通じて実際の音声に触れて、アメリカ発音の変化などをしっかり追っていました。今ならTV以外にもいくらでも音声を聞くことができますが、そうではない時代に細かな音声の変化に気づいて理論的に整理していたのは本当にすごいな、と思います。
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オンライン辞書においては発音が音声で聞けるようになっていますが、発音を音声で提供することにも様々な問題が指摘されていると思います。実際にはどのようなご苦労があるのでしょうか。
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正確を期そうするととても大変です。まず、ネイティブの人にすべての発音を録音することを頼むところから始まるわけですが、「じゃ、やっておいてね。」で済むわけではなく(笑)発音記号が読める人が立ち会う必要があります。英語母語話者で発音記号が読める人はあまりいないので。そして、もしゼロから作業をするとしたら、何万語という見出し語を読み上げるだけでも何日もかかるでしょう。そして、何通りかの発音がある場合に、辞書に記載するものがその人(=録音の吹き込みをする人)の第一発音ではない場合でも、お願いをして正確に発音をしてもらわなくてはなりません。それは結構大変なことなんです。機械ができるかというとまだちょっとうまくいかなくて。わかりにくいしお手本にはならないんですよね。まだまだ手作業で音声の録音をしています。
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03.-
岩崎研究会
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岩崎研究会にはいつ入会されたのですか。
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辞書のアルバイトを始めた頃、学部の3年生から入会して、読書会に出席するようになりました。大学院に進学することを考えている人は学部のときから岩研で勉強するような慣習がありました。当時大学は北区にありましたが、八丁堀の東京都勤労福祉会館や虎ノ門の国立教育会館など安く借りられる会議室を探して、色々なところで読書会をしていました。そのうち研究社が建て替えをして会議室を貸してくれるようになりました。
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岩崎研究会の事務局としてのお仕事をずっと担ってこられていますがいつからお手伝いされるようになったのでしょうか。
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竹林先生の教務補佐(現在のTAかつ秘書のような役割)をしていた人が、結果として岩崎研究会の事務を担うことになっていました。私が学生の頃は、赤須薫先生と同期の牛江ゆき子さんが、次にやはり岩研の会員の水野晶子さんが、そして私が学部の4年生のときに引き継ぎました。その後外大の大学院に進学したので教務補佐も続けていて、岩研の仕事もそのまましていました。
偶数月には学校文法の会、奇数月には辞書の会の読書会と、最初はこの2つの会だけでしたが、それぞれの出席者にリマインダーのハガキを送っていました。当時は宛名シールなどないですから、すべて手書きだったので、会員の方の名前と住所を自然に覚えてしまっていました。忘年会となれば全員に手書きでハガキを送っていました。朝尾幸次郎先生がコンピューターに強かったので、いち早く会員名簿を作ってくださって、ラベル印刷ができるようになって、非常に楽になりました。プリントごっこで忘年会の案内を作れるようになったときには感動しました(笑)。
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先生くらいのお立場になられてもなお裏方として研究会を支えていらっしゃることに敬意を覚えますが、どのようなお考えをお持ちなのでしょうか。
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主義主張があって続けているわけでもなくて、いずれはできなくなるのかもしれないけれどやれるうちはやっていかないといけないのかな、と思っています。企業であれば商品が売れないならやめる、紙の辞書が売れないならオンラインに切り替える、という決断をするのは当然でしょう。それに比べると研究会って中途半端な気がします。自分が嫌だから辞めるというのは違うのかな、と思っています。
私には竹林先生のような統率力はないけれど、岩崎研究会を昔から知っていて、研究社の辞書が売れて儲かったというだけではなく、いかにイギリスの辞書にも影響を与えて、国内でも他言語の辞書に影響を与えてきたか、そういうことを誇りに思って広めてもいいのかな、と。まだ、声をかければ研究会に入って読書会の担当をして勉強してくれる院生もいますし、研究会に出てこなくても声をかければ忘年会に出てこられる方もいます。時代は変わって、岩研も外大のものという感じではなく、色々な方がいます。小室さんもそうだし、山田さん(山田茂先生)もそうですよね。お二人は竹林先生と小島先生のお弟子さんですが、外大に全然関係なく辞書が好きだから、ということで入会される方もいます。投野(由紀夫)先生は今、外大にいらっしゃいますが、外大のご出身ではなくまだ学生の頃に辞書が好きで岩研に入られて。色々な人が出会って一緒にやっていける場所になりました。一時期は200名以上の会員がいました。Lexicon は国際的に読まれている雑誌でもあります。関わってきたからこそわかる良さや偉大さを大切にしたい気持ちがあるのだろうと思います。
老舗の和菓子屋さんのような気持ちかもしれません。江戸時代から代々受け継いできて経営が苦しくなってきたけれども、自分の代でついえてしまうのは罰が当たるのではないかというような(笑)。だからと言って、今後も未来永劫続けていって欲しいと思っているわけではなくて、ただ自分のできる範囲では、という気持ちです。
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辞書の話ではありませんが、竹林先生は植物と庭いじり大好きで、よく斎藤先生にもご自分で育てた植物を分けていらしたと聞いています。
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植物も若い頃は別に好きでもなんでもなかったんだけど、竹林先生から朝顔の種をもらったり、球根をもらえば植えますよね。植えたらそのままにしておくわけにはいかないので、お水をあげて、花が咲けばきれいだな、と思う。先生が挿し芽をして増やしてわけてくださったものを植えて、枯れてしまうものは翌年も楽しめるよう自分でも挿し芽をして増やしておく。そのうち、先生が色々と用意して待ってくださっているのがわかるので、先生のお宅に伺うときには袋を持って行って。先生がお亡くなりになった後、ご親戚の方に声をかけていただいてお宅に伺うと、たぶん私に渡そうと思って置いてあった植物があったので持って帰ってきました。もう10年以上も前になりますが、今もまだその時の植物はありますよ。これはすごく象徴的だと思います。辞書も最初は別に好きでもなかったんだけれど、先生に声をかけられて仕事をするようになってこれまでずっと続けている。岩研もそうですね。
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04.-
東京外国語大学と辞書編纂の伝統
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東京外国語大学の大学史がWebサイトから閲覧できますが、日本の英語辞書編纂の発展において東京外大が果たしてきた役割は非常に大きいと感じます。先生もご執筆をされていますが大変なお仕事だったのではないでしょうか。 https://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-English-2.pdf
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「英語辞書編集」のセクションは高橋作太郎先生がお書きになって、私は「英語音声学」のセクションを担当しました。大学史を振り返って、私自身も改めて外大の辞書編纂の伝統はすごいなと思いました。東大系の研究者の手による辞書もありますが、学習者にわかりやすい「学習辞典」としての英和・和英辞典という点において、『ライトハウス』などが国内外に大きな影響を与えたと思います。英語だけでなく、ドイツ語やフランス語の学習辞典にも間違いなく影響を与えていますよね。
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東京外国語大学の英米科において辞書編纂の伝統は「自然に」受け継がれていったのでしょうか。
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そうですね。もちろん「ちょっと研究室に来なさい」と言われて引き込まれていく場合もあるわけですが(笑)、自然に、といっていいのではないかと思います。ただ、その頃はまだ「辞書学」が確立していたわけでもなく、辞書に携わるといっても知識がないので、岩崎研究会に入って読書会に参加して、辞書について学んでいきました。
紙辞書の全盛期は言語系の人はみんな辞書に関わっていたと言ってもいいのではないかと思います。『ライトハウス』の編集でいうと、竹林先生は発音だけでなく、辞書全体の企画をして、出版社の人たちを引っ張っていく珍しいタイプの辞書編集者だったと思います。より一般的には、編集部がこういう売れるものを作りたいと提案して、それに従っていく感じだと思うのですが、竹林先生はダメ出しをどんどんして、辞書が出たら即、次の版のことを考えて、翌日から若い人を集めて準備にかかるような感じでした。竹林先生が英和、小島義郎先生が和英に中心的にあたり、お二人はとても仲が良かったですよね。東信行先生は、やると決まったこと、たとえば文法の記述などに時間をかけて緻密に取り組まれる。みなさんそれぞれお弟子さんが異なるので、人的リソースも豊富だったと言えると思います。浦田和幸先生や土肥一夫先生も東先生のお弟子さんですよね。
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東京外国語大学の関係者の方々が様々な出版社とお仕事をされていて、辞書は商品である以上、秘匿すべき情報もありますが、日本における英語辞書の発展の土台を築くという広い意味においては協力、協同されてきた印象があります。
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外大の先生方が様々な出版社と仕事をしているのはその通りですが、結果的にそうなった、と言えるかもしれません。東京外大と研究社のつながりは、岩崎先生のときからのもので、竹林先生や東先生は研究社としかお仕事はしませんでした。竹林先生は岩波のお仕事(『岩波英和大辞典』)もなさいましたが、ご自分で指揮を取るようになってからは、研究社だけですね。他の出版社の方もそれをわかっているので、発音の仕事であれば、「斎藤さんは無理だと思うんだけど、誰か紹介してもらえませんか」と問い合わせがあるような感じです。
外大の先生で、研究社以外の出版社と辞書のお仕事をされてきた先生方は、外大にいらっしゃる前からのつながりがあるからだと思います。馬場彰先生はもともと旺文社のお仕事をされていて、それを野村恵造先生が引き継いで『レクシス英和辞典』(2003)を出されていたり、宮井捷二先生の『グランドセンチュリー英和辞典』(三省堂)も、外大にいらっしゃる前からのお仕事です。
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05.-
これからの辞書編纂について
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AI時代における辞書編纂において、AI が発音を編集してくれるようになると思いますか。
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発音表記で言うと、AIが得意とするところかもしれませんね。発音のルールを教えてあげればルール通りにアウトプットされるでしょう。ただ、方針を立てて、きちんとしたプロンプトを出せる人がいないと無理でしょう。今度刊行予定の論文で、無料のオンライン辞書の発音記号をチームで比較分析したのですが、データを取得した辞書に載っていない見出し語に関しては、発音を「どこかから」取ってきているようなのですが、一体どこから取ってきたのか、はっきり言ってめちゃくちゃ、出鱈目です。紙辞書ではスペースの制約上、発音情報のなかった活用形や複数形にもオンライン上であれば発音を付けることができます。その点は良いのですが、どうしてこうなったの?という記号になっていたりします。AI が認識して再生する時点で何か変なことが起きているのかもしれません。ほとんど無法地帯になっていました。
辞書にはシステムがありますよね。色々な辞書があって、色々なシステムがあります。それぞれのシステムは違うのに、あたかもみんな同じように扱って情報を集めてくると、記述が統一されないことになります。
YouTubeからある単語の発音を取り出して、色々な人の発音を聞く、ということはもうできるので、発音表記が必要な単語を抜き出して、音声認識で聞き取り、それを発音記号に変える。いくつもの色々な人たちの発音を拾って、もっとも一般的なものを載せる、ということはできるはずです。そこにきちんとしたシステムがあるかどうかは別の話ですが。
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そうするとコーパスと同じような問題が発生して、それに対処するための考え方をしっかり持つ必要が出てくるのでしょうね。そもそもどのようなデータを扱い、目的を考えたときにどのような選択をするのか、というような。辞書のフィロソフィーはどうなるのだろう、と考えます。
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AI は情報を一体どこから取ってきたのかよくわからないけれど、でも短時間で情報を収集するのは得意ですよね。発音でいえば、それが何英語でどのような人の発音なのかもわからない。発音に限らず辞書は今後どうなっていくのでしょうね。
フィロソフィーの前に、そもそも辞書そのものがなくなる可能性もありますよね。昔は辞書っていうものがあって単語を一つ一つ調べてたんだよ、という時代が来るのかもしれません。もうすでにセンテンス単位で翻訳されるようになって、その正確さや自然さが増せば、その過程を知るために辞書を引く必要もなくなってしまうかもしれません。すでに便利な翻訳アプリがたくさん出ていますよね。辞書というのが紙の冊子体のものを意味するのではなく、コンピューターの中の辞書だけになって、それすらも AI が「勝手に」生成する時代になるのかな、と思います。
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06.-
インタビューを終えて