00

星野龍

Ryu HOSHINO
株式会社硏究社取締役編集部長
  • 1964年

    東京都生まれ

  • 1983年

    東京学芸大学附属高等学校 卒業

  • 1988年

    東京大学文学部ドイツ語ドイツ文学科 卒業

  • 1988年

    株式会社研究社辞書編集部

『新英和大辞典』(第6版)、『コンパスローズ英和辞典』など大小様々な種類の辞典の編集に携わる。英米文学研究書や語学書も担当。『英語青年』、『Web英語青年』の編集人も務めた。

『新英和大辞典』(第6版)、『コンパスローズ英和辞典』など大小様々な種類の辞典の編集に携わる。英米文学研究書や語学書も担当。『英語青年』、『Web英語青年』の編集人も務めた。

  • 1964

    東京都生まれ

  • 1983

    東京学芸大学附属高等学校 卒業

  • 1988

    東京大学文学部ドイツ語ドイツ文学科 卒業

  • 1988

    株式会社研究社辞書編集部

01

Interview

インタビュー

2025.05.21 実施

  • 01.-

    辞書編纂に携わるまで

    英語との出会いについて教えてください。

    アンサーアイコン

    出会いというほどのものはなく、ごく普通に中学校で英語を学び始めました。将来、仕事で英語に関わるようになるとは夢にも思っていませんでした。東京学芸大学附属大泉中学校(現在は東京学芸大学附属国際中等教育学校へ統合)に通っていました。4クラス中1クラスが帰国子女専用枠なのですが、2年生からは彼らが4クラス全体に混ざり出すんですね。帰国子女といっても英語圏だけではないし、在外期間も異なるので、全員が同じ条件ではないということは段々わかってくるのですが、それでもある程度の知的水準に達している人は、複数の言語環境で暮らした方が言語能力に優れているのだと感じました。英語ができれば日本語もさらに意識化されて深まるという印象があって、そういう人たちがいるのに自分が英語で仕事に関わるだろうとは思いませんでした。高校に進学した際にも、やはり帰国子女枠があって、学力試験をクリアしていれば英語ができるだけではなく知的にも優れていて、英語で自分の出る幕はないと感じたのが正直なところです。英語は特に好きでも嫌いでもなく、勉強すれば試験で点数は取れたけれども、その点数と語学力は別物だと感じざるを得ませんでした。

     

    ただ、出会いと言えば、80年代から90年代にかけての書店文化には影響を受けたかもしれません。当時住んでいた池袋は書店が充実していて、のちにリブロの名で有名になる西武ブックセンターでは翻訳文学とその原書を同じ棚に並べて売っていました。それをぼうっと眺めていて、何となくアメリカ現代小説の原書をあれこれ読むようになりました。

    東京学芸大学の附属校ということで英語教育において何か特徴的なことはあったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    当時、他の中学校でどのような英語の授業が行われていたのかわからないので正確に比べようはないのですが、附属校ということで実験的な意図は色々とあったのだろうとは思います。当時の校長先生が―といっても入学式の挨拶などでしかお目にかからないのですが(笑)―羽鳥博愛先生(故・東京学芸大学名誉教授)で、その影響があったのかどうかはわかりませんが、音声に重きが置かれていたかもしれません。たくさん発音させられましたね。若い先生は留学経験があり、発音など実に流暢な方がいました。ベテランの先生の中には発音に関してはちょっとという方もいないではなかったですが…。

    附属高校に進学してからも英語の位置付けは変わらなかったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    英語は大学入試の試験科目なのでそれなりに勉強はしていましたが、国語や社会の方が得意でした。文学が好きだったところはあって、本は小説や哲学書などごちゃまぜで読んでいましたが、友達に誘われて卓球部に入って遅くまで練習したりもしていたので、たくさん読む時間もなかったように思います。高校は世田谷にあり、自宅のあった新座市からの通学中はものすごいラッシュで、立ちながら寝ることはできても読書はとても無理でした。

    中高における英語の勉強で英和辞典は使っていましたか。

    アンサーアイコン

    学校指定の辞書はなく、三省堂の『コンサイス英和辞典』を使っていました。そのうちに、もう少し情報があった方がいいと思い、同級生が使っていた研究社の『新英和中辞典』(第4版)を購入しました。当時はそう意識的に辞書を使っていたわけでもなく、出版社もまったく意識していませんでした。

    文学部に進学してドイツ語・ドイツ文学を学ぼうと思ったのはなぜですか。

    アンサーアイコン

    言語に関しては、周囲に英語がよくできる人たちがいたために、英語はわざわざ自分が選択するものではなく、「あの人たち」に任せておけばいいという感覚がありました。そして、自分の興味関心が広い意味での文学系にあって、文学部が居心地いいかなと感じるタイプでした。印象論ですが、通っていた大学ですと、英語圏は文学的なものと思想的なものの研究が少なくとも19世紀以降、わりと分かれているのに対して、ドイツ語圏などは、文学と思想が分かちがたい感じで一体となっており、そういう方が自分には合っていた。日本における文学研究のカルチャーは、言語が異なるとかなり違うと感じられました。独文に行って思想的なことを学ぶのと仏文に行って思想的なことを学ぶのでは結構雰囲気が違っていました。仏文の方がまずは狭義の意味での文学をきちんと学ばなければいけないという圧があったと思われました。一方で、実際にはいわゆるニューアカ全盛時で、フランス現代思想に人気があったわけですが。独文では、日本で突出して人気のある作家がいなかったことも関係しているのかもしれませんが、二つの間にまったく境界がない感じで学べました。私が学生の頃、おそらく学部だけでなく院も含めてもっとも人気があったのはヴァルター・ベンヤミンという批評家だったかと思います。すでに独文科が絶滅危惧種になりつつあった頃です。

    東京大学文学部ではどのような学生生活を送られたのですか。

    アンサーアイコン

    大学では文芸サークルに入っていました。1年生の時はまだ専攻は決まっていませんが、英文、仏文、独文、国文など将来の志望が異なる学生が集まっていました。読書会を開いて、自分独りで読むにはしんどい作品をみんなでお互いに牽制しあいながら(笑)読む、ということをしていました。翻訳文学を扱うことが多かったです。それこそ王道の『ユリシーズ』、『失われた時を求めて』や、トーマス・マンの『魔の山』などです。本当に読んだのかどうか、お互いにトリビアクイズなんかを出して試したり(笑)。ジャック・ラカンは構造主義の大物で、難解な文章を書くことで有名ですが、日本語の翻訳もわかりにくくて悲惨だったので、仏文の学生が原文のフランス語、英文の学生は英訳、私は独訳を持ち寄って、それぞれのテクストを比較しながら読んでみたのは面白かったですね。学生だけでどこまでちゃんと読めていたかは怪しいですけど。英語は逐語訳の傾向が強く、ドイツ語は反対に深読みしてパラフレーズしている感じで、日本語が一番わけがわからない(笑)。フランス語がよくできる人がいたので成り立ったようなところはありますが。同人誌を作って、それを学園祭で売るのに全然関係ないチョコバナナを作って、それで客寄せする、なんてちょっと恥ずかしいこともしました。

     

    あとは、朝日新聞社でアルバイトをしていました。夕方4時から夜10時までデスクの補助をする「原稿係」、つまり雑用係です。電話対応、車の手配、官庁にこもった記者への弁当配達など、2年くらいやりました。同級生はほとんどが家庭教師や塾講師で稼いでいましたが、私は教えることがあまり好きでなかったのです。朝日では、ちょっとした奨学金ももらえたり、社員食堂では食券を支給されてビールも飲めました。記者の方々もかわいがってくれて、仕事が終わった後、明け方に築地でお寿司を奢ってもらったりもしました。新聞社が一番よかった時代ですね。

    独文科ではどのようなご研究をされましたか。

    アンサーアイコン

    最初はドイツの戦後文学を勉強したいと思っていたのですが、3年生で独文に進んだ時にたまたまウィーンの世紀転換期の専門家がいらして、そこが面白そうだなと感じ、オーストリアのホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal)という作家の作品に即しつつ、世紀転換期における言語の危機にまつわる卒論を書きました。ホーフマンスタールは、日本ではオペラ『薔薇の騎士』の台本によって、音楽の方面でより知られているかもしれません。ウィーンは、オーストリア=ハンガリー帝国の中心だったので、世紀末にかけて都市として発展し、東欧から色々な人たちが流れてきて移民問題や反ユダヤ主義が勃興し、シオニズム運動の源流も生まれてきました。それまで知的なユダヤ人はドイツ語文化に同化してその一翼を担っていたのですが、移民が増えて排外的な傾向が強くなってくると、どちらかというとユダヤ的習俗を避けてきた彼らがユダヤのアイデンティティにすがるケースも出てきて、それがシオニズムにつながります。そうした風土の中、多民族都市であったウィーンで、ドイツ語という言語アイデンティティに拘り、分極化で言語の豊かさが失われていく危機があるという混沌とした状態を憂えたホーフマンスタールは、どちらかというと保守の人で、ドイツ語というアイデンティティで民族を超えて文化的コミュニティを作ることを考えるのですが、第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して、その中で何ができるか模索しながら死んでいきました。現代にもつながるところがあり、歴史は繰り返すんですね。

    大学ではどのような辞書を使われていましたか。

    アンサーアイコン

    ドイツ語に関しては、学習辞典が揃ってきた頃で、学習者向けの辞書とそれ以外を使い分ける世代になっていたと思います。学習辞典が出版される前は、『木村・相良 独和辞典』(博友社)などが支配的で、一応それも持っていたんですが、シンチンゲルの『現代独和辞典』(三修社)や、その後同学社から出版された初学者向けの『新修ドイツ語辞典』(現在の『アポロン独和辞典』)も使いました。同学社にはカナ発音が付いていて、当時、中規模以上の辞典でカナ発音を付けていたものは英語を含めてなかったんじゃないかと思います。ドイツ語の学習者数も今よりもずっと多く、評判はよかったようです。辞書と意識的に向き合ったのは、英語よりもドイツ語が先だったかもしれません。

     

    英語は、読書会で色々な作品を読んでいたので、図書館へ行って『新英和大辞典』を引いたりしていました。が、研究社の辞書であることは意識していませんでした。

    大学生活のご様子を伺うと不思議はないのですが、出版業界に職を得ようと思われたのはどうしてですか。

    アンサーアイコン

    本当に偶然です。就職課で求人を見ていたら「ドイツ語辞書・英語辞書の編集を求む」という文字が目に入ってきて。ドイツ語辞書の編集なんて求人があるんだと驚きました。ドイツ語がそんなにできたわけでもないのですが、それを活かせるのなら、と考えましたね。他に、大学出版局なども受けたのですが、そこでは麻雀が強くないといけない(笑)といったことがあったようです。麻雀はルールもまともに憶えていないくらいでしたので。

  • 02.-

    辞書編集部での仕事

    最初の辞書のお仕事は独和辞典だったのですね。辞書編集に関する研修のようなものはあったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    私が採用された理由であるドイツ語辞書は、20年前に改訂が始まり、その後まったく埒が明かなくなっていました。その上、担当編集者が高齢で顧問になったので、若いのを一人あてがって、とにかく終わらせようという意向があったかと思います。ちょっと会社のお荷物的な存在でした。編集業務の研修などはなく、入社した最初の2日間はその辞典の規約を読めと言われて、A4で100ページくらいある冊子を眠気と戦いながらひたすら読みました。読み終わったらゲラを渡され、見様見真似で仕事を始めました。疑問点をぶつけると、その顧問の方が実にいろいろなことを雑学含めて教えてくれました。

    その独和辞典の改訂は無事に終わらせることができたのですか。

    アンサーアイコン

    担当している正社員は私一人。その後も刊行までに10年くらいかかりました。辞書編纂において「してはいけないこと」を反面教師的にも学んだと思います(笑)。英語なら社でも辞書を作り慣れていてノウハウもある程度共有されていたのに対し、ドイツ語はそうもいかず、時にゲラ1ページに数日かけていたような記憶があります。

     

    ただ、そこまで時間がかかってしまったのには然るべき理由もありました。ホーンビーのISEDIdiomatic and Syntactic English Dictionary)が出版された後、大きな流れとして、英語学習辞書で文型を明示する流れがあったかと思います。それをドイツ語にも取り入れなくてはいけないということで、新たに文型の記述を追加して語義も分類し直すことになり、情報を一から洗い直すということをしていました。『ブロックハウス・ヴァーリヒ ドイツ語辞典(Brockhaus-Wahrig Deutsches Wörterbuch)』という過剰なまでに文型を分類している6巻本の辞書等の記述と比べながら、ほぼ作り直しのような工程をたどっていたのです。後に英語の辞書を作る上での勉強にはなりましたが。

     

    この辞書はもともとポケット辞典だったのですが、出来上がった時には、完全に中型辞典になっていました。元の辞書がドイツ語の大家、日本独文学会の創設者である相良守峯先生(故・東京大学名誉教授)監修の辞書でした。相良先生は、ドイツ語の中ではかなり辞書編纂のご経験がある方だったので、辞書作りは何よりも拙速が大事だ、とお弟子さんたちに何度も何度もおっしゃっていたらしいです。お弟子さんたちもなぜこんなに時間がかかってしまったかと訝しく思っていたらしいのですが。

    最初に携わった英語の辞書は何ですか。

    アンサーアイコン

    ドイツ語の辞書だけにかまけているのはけしからんということで、英語の辞書は何でも手伝いました。まとまった仕事の初めは『ライトハウス和英辞典』の第2版になるかと思います。担当編集者が諸事情で急に退職してしまい、参加することになったのです。ちょうど発音記号の母音表記を大幅変更した時で、細かい修正作業が必要になり、人手が必要でした。小文字でアクセントのある母音記号をゲラの上でひたすら探して、それをスモールキャピタルに書き換えるのです。発音記述の場所が、英和であれば見出し語直後におおむね決まっていますが、和英では本文中のどこに出てくるかわからず、目を皿のようにして探すのです。そのうち、母音記号に一瞬にして反応できるようになりました(笑)。

     

    最初がドイツ語ということで、会社の中ではマージナルな存在だったので、とにかく遊軍的に手伝いに駆り出されていろいろな規模・種類の辞典を担当させられました。『新英和大辞典』のような極大のものから『新リトル英和和英辞典』などの極小のものまで関わりました。雑学辞典や時事英語辞典などがよく買われ、英語の情報をみんなが求めていた時代には、情報量の多さを良しとするトレンドがあり、各社一斉にポケット辞書ですら見出し語をむやみに増やすということをしていました。それに乗っかって『新リトル英和和英辞典』の拡大版も作りました。判型が同じままで異様に厚みが出るという、振り返ってもおかしなコンセプトで、電子辞書が出た時に最初に用済みになったジャンルです。

    編集部には使用者からの声がハガキや手紙、電話でよく届くと聞きますが、そういったご対応もされていましたか。

    アンサーアイコン

    売れる部数が多ければ、当然ながらご指摘も多く寄せられました。同じ箇所の誤植の指摘が何通も何通も来ると、対応していてノイローゼっぽくなりますが(笑)。

     

    一時期、受付の隣の席に座っていたことがあって、代表電話によく出ていました。誤りのご指摘もあれば、感謝・激励もかなり寄せられました。ある辞書でキャッチワードの綴りが間違っていて「このせいでうちの息子は大学入試に落ちたんだぞ!」と電話口で絶叫された時はさすがにずっこけました。まあ、ひとつも誤植を出さないという心構えでしっかりやれというお叱りかと受け止めましたが。辞書がめちゃくちゃ売れている時にはそういう電話も少なくなかったんですよ。辞書が、いわば大衆商品的になったからこそ起きたことだと言えるかもしれません。上級辞典ほどそういう反応は起きにくいんです。もちろん、『英語語源辞典』のような専門性が強いものだとかなり手強いマニアックな投書が来ましたが。

  • 03.-

    英和辞典の編集・改訂について

    学習指導要領の改訂(コミュニケーション重視)や入試制度改革(センター試験リスニング導入)など外的な変化は英和辞典の改訂にどのように影響しますか。

    アンサーアイコン

    学習英和辞典では、本来はそうそう揺るがない土台や基礎となる情報を前面に出したい気持ちもありますが、改訂が頻繁になって他社との競合が激しくなってくると、そうした時代の流れの変化を「特色」として取り入れることになります。センター試験のリスニング導入などは、改訂の際に辞書に特色を持たせる上でうってつけの、飛びつきやすいネタであったことは確かです。営業的観点からはとにかく新しい要素を入れてほしいという要請がありますが、特色を正面玄関の飾りのようなものにして、時間が経つと外すということでいいのだろうかとは思ってしまいます。

     

    例えば、英和辞典も発信的な要素を取り入れなくてはならないという風潮がありますよね。辞書をずっと眺めてきた立場からすると、意味と形の相関性についてデータを取って、それを辞書という形でしっかり記述できれば、それは読むことにも発信することにつながるのではないかという理想論は抱いてしまいます。

     

    しかし、実は特色が辞書を「進化」させてきたという側面もあります。研究社の『新英和中辞典』がブレイクした時です。文法・語法に関する情報を盛り込んでいたことに対して英語の専門家からは「辞書がそんな文法書の範疇まで載せるべきではない」という批判の声が上がったのですが、教育現場では大歓迎されたと伝え聞いています。その後、『ライトハウス英和辞典』などがその系譜を継ぎ、『コンパスローズ英和辞典』ではさらに認知的なコア・ミーニングの発想を導入しました。将来においても本来異質な要素の「特色」が辞書のカンフル剤になりうるかもしれないです。今日の生成AIの成功の背景には自然言語処理の試行錯誤の歴史があると思いますが、その道筋の中にヒントがあるかもしれない。

    最近、英和辞典の日本語の部分に興味があるのですが、あまり研究がなされてきていない印象があります。

    アンサーアイコン

    英和辞典の見出し語に対応する日本語の部分は、定義なのか訳語なのかという問題を突き詰めていくのは現実にはなかなか難しいでしょうね。訳語ではなく意味を示すべきという考え方を取ると、説明的記述にするか、(日本語の)類語を列挙して意味の圏域を示すという分散意味論的な在り方になるんでしょうか。並べた類語の最大公約数が意味なのか、その足し算が意味なのか、という点でも項目によってはあいまいなところが残っているかもしれません。次の話にも関わりますが、英日の意味合いに距離があればあるほど、ひとつの英単語に対する日本語の定義/訳語の量が増える傾向はあるでしょう。一方、極端な例でいうと、『リーダーズ英和辞典』は、訳語として使えるものはなるべくたくさん列挙する、むだな説明などはしないという方針が根底にあります。

    二言語辞書一般ではなくて、英和ならではの意味・訳語の分類について考えてみたいけれども手をつけられずにいます。

    アンサーアイコン

    欧米の言語同士に比べると英日では言語間・文化間の距離がだいぶ遠いので、そもそも事物や概念の分節の仕方に隔たりもあり、それが語義分類に如実に現れます。ご指摘のテーマは非常に重要かと思います。

     

    一方で、日本人独自の発想で語義区分を行うことを抑圧するような無意識のベクトルもあった気がします。語義分類もできるだけ権威ある英英辞典のものを踏襲しようとする。ネイティヴのようになることが最終目標だとすると、ネイティヴの語感を受け入れることが前提になっている。一般辞典のスタッフは、定義語彙を限定するような学習英英辞典の記述などは不十分で、やはりMerriam-Webster’s Collegiate Dictionary のようなネイティヴ向けのものでなければ英語をきちんと説明できないと言っていたのを思い出しました。ネイティヴの語感といっても、英語という言語のグラデーションの中の一部でしかない、ある種のエリート層の英語が規範という考え方を、辞書編集部の人間は引きずってきたように思います。

     

    英和辞典が非常に売れていた時代は、国際化=英語で、その英語の方に自分を寄せていくことがいわば当然のように考えられていました。多くの人がそう考えて英語学習にお金をかけると、そのお金でさらに高度でマニアックな学習環境が生じる。英語は特権的存在であるがゆえに、他の外国語との関係にはないような特殊な文化がそこに生じていたとは思います。ただし、外国語を真面目に学び、二か国語のギャップを徹底的に考えるというような文化が評価されにくくなってはいるでしょう。

    英和辞典の記述、特に用例を英語母語話者の視点できちんとチェックする体制というのはどのように整ってきたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    正確には判りませんが、おそらく80年代以降ではないかと思います。辞書の性質上、英和よりも和英の方が先にその意識を持っていました。それで、和英のインフォーマントの方々が英和も見てくれるようになるケースが多いと思います。初期段階は用例全部ではなくあくまで部分的に、そしてある時期から用例全体を見直すということを始めたと思います。

     

    辞書の用例の校閲はかなり特殊です。単に言葉遣いが正しいかどうかではなく、ある見出し語のある語義の代表的使用例として適切かどうか、さらに英日の対応に問題がないかを総合的に判断できなければなりません。校閲に向いている人を見つけることも、適切な校閲ができる人を育てるのも難しいです。『英和活用大辞典』や『新和英大辞典』の改訂の際には担当者がこだわり、膨大な数の人に声をかけて、そこから厳選していくような感じでした。ただ英語ができればよいということではないので、和英関係の担当編集者は選出に徹底的にこだわっていたように思います。トム・ガリー(Tom Gally)先生(東京大学名誉教授)は、『和英大辞典』の改訂作業でご縁ができたお一人です。『和大』第5版の時には、会社にネイティヴ・スピーカーの方が常駐する部屋を作り、そこに編集者がゲラを持参して疑問点を見せ、その場で結論を出してもらうということをしていました。そうでもしないととても終わらない状況だったのです。ガリー先生のほかにマーク・ジュエル(Mark Jewel)先生(早稲田大学名誉教授)などもいらっしゃいましたね。

     

    和英の担当者は当然ながら用例収集にも意欲的でした。最初の『英和活用大辞典』を作った勝俣銓吉郎先生は膨大な用例をカードに記録していたので、それに倣おうという気持ちが強かったと思います。かなりの時間と費用をかけて英語と日本語の用例をデータ化して辞典作りに役立てていました。

    研究社には研究社印刷があり、その紙面の美しさにも定評がありますよね。

    アンサーアイコン

    研究社印刷(2022年に廃業)は、辞書に限らない欧文の組版のノウハウを経験値として共有していました。編集部よりも美意識が高いオペレーターもいて、印刷所の中でその知識と技術が継承されていました。電算組版に移行しはじめた時期は、版面が崩れて見た目が汚くなってしまったことも一時的にあったのですが、現場の方々が活版の美しさに近づける努力をしてくれました。特に辞書の組版は情報密度が高く特殊なので、その分、硏究社印刷の存在意義は大きかったです。組版ソフトなど、デフォルトのままで使用すると版面がきれいにならず、どんどんカスタマイズしていきました。しかし、昨今は多くの組版ソフトのメンテナンスが終了したり、バージョンアップが頻繁になったりで、持続的な出版活動が難しい環境になっている。そうなると、最初に打撃を受けやすいのは、辞書のようなジャンルです。

     

    また、辞書に限らず一般論として、電子書籍としてのレイアウトも考えないといけなくなりました。印刷用組版ソフトの凝ったフォーマット・デザインを保持したければ、それを画像化して提供せざるを得なくなりますが、そうすると容量が増えますし、ツールによって読みにくくなることが考えられます。タブレットなのかスマホなのか、スマホでもOSのバージョンにアプリ動作が左右され、ビューワーにも影響を受けます。ものを読む環境の変化も激しく、媒体の形も流動的になっているので、結果として、より工夫が少ないもののほうがより流通しやすいという流れができています。硏究社印刷のような極みを誇る技術が失われやすくなっているのは残念です。製本も同様に、辞書などの上製本を造る技術を維持するのが困難な時代になりました。売り上げが減ると、作れる部数が減る。当然コストが高くなる。するとさらに作れなくなる。辞書の中身と同じ構造です。

     

    欧米の辞書事情を見れば、商品として成立しないということで紙の辞書はかなり絶版になっていますよね。あちらでは経営者の視点がもっとシビアだと思います。日本の出版社はよきガラパゴスになれるのか、というところでしょうね。

  • 04.-

    辞書編集者としての30年を振り返って

    星野さんが辞書編集部に入ってからの30年は辞書を取り巻く環境が非常に大きく変化しましたよね。典型的な1日の過ごし方も、昔と今ではかなり異なるのではないでしょうか。

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    そうですね。昔は、みなが一日中ゲラを読んでいる、とても静かでおせんべいが食べられないと言われていた職場(笑)でした。紙をめくる音しかしない。もちろん編集者によって仕事のスタイルは異なるので頻繁に電話をする人も若干いましたが。電話をするのは肩身が狭いという、それはそれで今考えると問題ですが、そんな雰囲気がありました。現在は、昔のように辞書ばかり作っているわけにもいかず、単行本の仕事と組み合わせながら編集作業をしています。一人当たりの分担の範囲も広がっています。自分の立場としては、編集部員たちにいかに時間を節約するかを問い、要請し続けているというのが実情です。

    80年代に入社されたということは英語辞書の最盛期ですよね。

    アンサーアイコン

    80年代は『ライトハウス英和辞典』をはじめ辞書が一番売れた時代です。儲かって豊かになればなるほど人間は自己中心的で頑なになるところもあるようで(笑)、学習辞典を「子ども用」と蔑む人もいれば、一般辞典が「学習辞典あってこそ成り立ってんだろ」と反論する人もいて、学習辞典内でもそれぞれが一国一城の主のような感じで覇を競う。そして和英担当者は「英和の連中は英語をわかっていない」と我が道を行っていました。ですからお酒を飲むとみんな議論し喧嘩していましたね(笑)。それぞれちゃんと売れていたから、そんなことも可能だったんでしょう。

    『ライトハウス英和辞典』を牽引した竹林先生のような編者は珍しいと考えてよいでしょうか。

    アンサーアイコン

    そうですね。竹林先生は本当にプランナーというか、学者にとどまらないところがありましたよね。研究社の経営方針に対する先生の影響力も大きかったです。特に、竹林先生と小島先生のコンビでバランスが取れていて、あのお二人で話し合って決めたことは正鵠を得ているということで、社長もそれに従っているところがありました。一例として『ライトハウス』を7年周期で改訂する、その中間にレベルの異なる学習辞書を出して相互に情報をアップデートしあって共有する、といった流れを作られました。とはいえ、お二人とも将来を見越して、自分たちばかりに依存していてはだめだという姿勢をある時期からは打ち出していらしたのです。

     

    ただし、竹林先生はある時期から、今の学習辞典は見出し語が多すぎると折に触れておっしゃっていましたが、それは実際には編集方針に反映されなかった。営業的には『ジーニアス英和辞典』などと競合するために収録語数を減らせないという考え方が強かったからでしょう。

     

    小島先生にも後継者を作らないといけない、それは私だけでなく研究社の責任でもあると言われていました。和英のほうが、インターネットからAIに連なる時代にどのような形が可能なのか、その存在理由がより喫緊の課題になっていましたから。

    竹林先生は悪筆で有名だったゆえに、ワープロを導入し、初めてワープロでコメントを戻されたら、その日のうちに研究社中に伝わったとご本人から聞きました。

    アンサーアイコン

    あくまで極端なケースですが、研究社印刷の組版職人なら竹林先生の字を解読できていたので、編集者は「一部読めないけど良さそうだからこのまま渡してしまえ」と原稿を印刷所に入稿し、組んで出てきた後にこういうことだったんだと言っているのを聞いたことがあります(笑)。確かに編集部は苦しんでいましたね。ワープロは天の救いでした。

    この30年でもっとも大きく変わったことは何でしょうか。

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    ひとつには、やはり辞書の売れる数です。少子化が進み、教室での辞書の一括採用も減っています。売り上げが減ると、許されるコストと時間、そして結果として作り方も変わります。その結果、編集作業も執筆作業もよりピンポイントにならざるを得なくなる。本当はゲラも複数の人間が何度も何度も通読するのが理想ですが、それも難しくなりました。代わりに校正過程へのAI等の導入は必至です。

     

    営業の環境も激変しました。全国の高校に足を運び、教員ひとりひとりに丹念に辞書を売り込むというかつてのスタイルは不可能です。個人が固有の企業と結びつくのはよくないという風土の変化もあり、人との繋がりが失われやすくなりました。

     

    学習辞典は学校教育・環境の変化によって居場所を失いつつあり、百科的情報を売りにしている一般辞書はインターネットの普及で存在価値が薄れつつある。IC辞書という電卓状の電子辞書が買われているうちはまだよかったですが、それも売れなくなった。ICT教育が進み、タブレットやPCでの学習が浸透すれば、単体での辞書を用意する必要がなくなる。アプリやネット上の辞書を利用して、辞書はますます見えないもの、認知されないものになっていく。電子化の流れがさらに先へ進むと、何が辞書として残るかを考え直さないといけないわけです。これまでは紙で作った辞書を電子化するという発想でしたが、それは通用しなくなってしまったのです。

  • 05.-

    辞書編集者に必要な資質

    辞書編集者に必要な資質をどのようにお考えでしょうか。

    アンサーアイコン

    この30年でかなり時代が変わりましたが、通して必要であったのは、あまりに当たり前の「構想力」でしょうね。状況に鑑みて辞書をどのような方針、規模、形状、コスト設計で企画するかが大切です。細部に耽溺してしまうと編集者としてはダメなんです。辞書がよく売れ、たくさん作られていたころなら、社内の編集者のほとんどが校正者に徹するだけでよい時期もありましたが、現在はそれが許されなくなっている。

     

    弊社に限ったことかもしれませんが、昔ほど辞書編集が特殊ではなくなってきている気がします。辞書には膨大な地味な検証作業が伴うので、以前なら構想する力だけでは不足で、実際に生じる無数の細かな作業に向いた資質が必要だったのです。ただ、現在の製作環境では、編集者が正社員として携わる人件費がばかにならないという現実があります。そうすると、編集者はできるだけ細かい作業から自分を解放しなくてはならない。全体のコントロールとコスト設計、自分の代わりに細かい作業をしてくれる人材を見い出し、動かす力の方が重要になってくる。もちろん、辞書が扱える編集プロダクションなども頼りになりますが、辞書市場全体が縮小していると、そうした外部製作環境も逼迫してしまいます。

     

    構想の仕方が全然違うけれども、実は普通の単行本の編集者に近づいてきているのかな、と感じます。小室先生にJACET辞書英語研究会に呼んでいただいて話をした後、参加してくださった辞書尚友の学生さんが参加レポートを書いてくださいましたよね。その中で「作り手と使い手の意識が乖離しているのではないか」というご指摘がありました。学生さんたちの念頭にあったのは、おそらく「面白い辞書があったら買うでしょ?」ということなのかと想像します。私たちのこれまでの辞書製作の基本モデル、『ライトハウス』のような売上的に基盤となる辞書をあの価格でたくさんの人に売り、それによって得られた資金で他の辞書も作るという、大量生産/大量消費の辞書が中心のビジネスモデルが機能しなくなってきているのであれば、面白い辞書を作ればいいじゃないか、という発想があらためて大事になる。とすると、単行本を作るのと似てくるのはある意味当然なのではないか。そうであれば、これからはよく売れる単行本の編集のような考え方、かつ、辞書固有の問題を理解し取り組める人、というのが必要になってくるのかもしれません。もちろん、面白さを深めるとどうしてもマニアックになって、辞書好きだけのための辞書になってしまってもまずいですが。

    • -1

      「インフラ化する辞書」JACET英語辞書研究会第2回例会 2024年3月10日

    • -2

      「【参加レポ】2023年度JACET英語辞書研究会第2回例会」辞書尚友. 2024年3月30日

      https://note.com/jisyoshowyou/n/n218a8fab10bb

    研究社の辞書編集部に特徴的なことは何でしょうか。

    アンサーアイコン

    おそらく編集部員のコミットが多いところかと思います。他社も状況が悪化している中で、うちは内容に対する編集部の色々な意味での関わり方、手伝い方がより密になっているのではないかと思います。それをプラスに活かせたらいいなと思います。

    一番ご苦労した辞書は何ですか。

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    一番体を痛めたという意味で、判りやすく大変だったのは『英和大辞典』ですかね。私は最初、単なる手伝いで参加したのですが、社内的な事情により、最後の数年は中心的な役割を担わざるを得なくなりました。大辞典になると作業もかなり細分化されていて、関係する人間の数も社内社外ともに多く、工程を組み合わせてスケジューリングを行い、たくさん指示を出さないといけないんですね。見出し管理、発音、語源、成句、用例、語法、類義語などが別々に並行して作業されます。ゲラを読むのもじっくり読むのではなくて、各工程がしっかり進んでいるかどうかを確認するためにざっと見る感じで、遅れていれば人の手当をするなどの進行管理、進行確保のために見る感じです。加えて、全体から見ればほんの一部でしかありませんが、自分が製作担当しているセクションもありました。毎週末はマッサージに通い、鍼を打たれ灸をすえてもらっていました。

    『英和大辞典』の改訂が終わった時の喜びは大きかったのでしょうね。

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    実は『大辞典』が終わった後、なんのカタルシスもなかったです。辞書って終わって嬉しいとか爆発的な喜びを持てないような気もします。辞書編集者の多くはそうかもしれません。終わっても、誤植はなかったかなとか、心配が先立ちます。苦情がきたらどうしようとか。単行本だと「自分の」本だという意識が持てるのですが、辞書はとにかく関わる人数が多いので、いくら自分が主体的に関わったとしても多くの中の一人でしかないですよね。むしろ、次の改訂はどうしようとかそちらに意識が行きます。

    すべきことに淡々と取り組む職人さんですね。

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    ただ、私にとって辞書作りの歴史は、職人技が崩壊していくのを辿る歴史だったんです。80年代までは辞書の製作はいずれの工程でも職人仕事だったけれど、経済原理等でそれが成り立たなくなりました。職人仕事を見直して、その内実を異なるものに変換していかざるを得なかった。職人肌の人にはコノヤロウと思われることをやってきたんです。ただ延命しているだけで生き残れない。辞書編集部はあちこちでリストラされていますよね。

    これからの辞書はどうなると思いますか。

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    辞書編集者にとってディストピアの未来(笑)を思い描いてみると、スタティックな「辞書」という記述情報は不要になって消滅している。最新の大規模言語モデルを基に生成AIがその都度必要な単語やフレーズの辞書的データを作ってくれれば、ジャストフィットで鮮度も高い情報を得られ、それで十分ということになる。よく言えばダイナミックな辞書ということです。JACET英語辞書研究会で「インフラ化する辞書(=見えない辞書)」というお話をさせていただきましたが、その行きつく先はここです。人間と言語の関わり方は大きく変わっていき、言葉を操るプロセスの中に辞書の機能は限りなく溶け込んでしまう。

     

    辞書の未来は語学の未来によって左右されます。英語を学ぶこと自体もまたAIの登場で変質しつつあります。最低限の対外コミュニケーションのために外国語を学ぶ必要はなくなるかもしれない。すると、何のために英語を学ぶのか。もちろん英語圏の文化・文学が好きという人も一定数はいるでしょうが、昔ほど外国への憧れも多くないでしょう。英語の勉強が一種の精神修養になっている人たち、語学学習に実用性を求めるのではなく、おのれを高める自己啓発のように位置付けている方も一定数いるように思います。外国語を学ぶということは、別にそれで会話するということではなく、自分の頭を鍛えて活性化させるトレーニングの一端であると認識している方々に対しても、意義深い辞書を提供できたらいいと思います。

     

    漠然とした実用性では辞書が必要とされなくなる。もっと明確な価値を付与しなければならない。限定された層になってしまいますが、人間の目を経た情報の価値や意味を理解してくださる人たちに辞書を届け続けなければいけないとは思っています。

    この激動の時代において、これからどのようなことを実現していきたいとお考えですか。

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    危機的状況にはありますが、辞書を作る伝統を保持できればと思います。辞書というものは、万が一に備えた情報も盛り込んでおくものであり、一度も引かない見出しがあってもそれはやむを得ないでしょう。しかし、現在、特に学習辞典は、一冊で用が済むようにさまざまな需要に備えて、実際に使うかどうかも判らないアプリやサービスをあらかじめ詰め込んだパソコンやスマホのようになっているかもしれません。むしろ、もう一度原点に戻り、決してマジョリティではないかもしれないけれど、辞書でしっかり勉強する人が必要とするコアな要素を残して削ぎ落とし、あえて紙で座右に置いてまめに引いて熟読してもらえる手ごろな辞書も作れればと思います。まったくの原点回帰ですが。

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インタビューを終えて

硏究社は、私にとって特別な存在で、そこで30年以上に渡って辞書編集者として激動の時代を駆け抜けてきた星野さんにお話を伺う日を、畏怖の念もありながら心待ちにしておりました。

広く深い知識と様々な経験からくる洞察に満ちたお話をまとめるのは自らの知識と技術では至らないところが多々あったのですが、相手はプロの編集者、書き起こし原稿に神の手を入れてくださいました。

英和辞典は、私にとって必要不可欠な勉強道具であり、大人になってからは研究対象にもなったため、辞書は第一に商品である、という認識こそあれ、「大衆」商品という認識は欠落していました。学習英和辞典がある時から、大量生産大量消費の大衆商品化したと、言語化できるレベルの認識がなかったことを痛感しました。

また、私は研究社の英和辞典で育ったので、研究社の紙面がデフォルトでした。が、ある時に他社の新しい辞書を見た時に「汚なっ!」と感じて驚き、研究社の辞書の美しさに気づいた、という話を星野さんにしましたら、私の辞書の紙面に対する感覚は、「研究社印刷の技術で育まれた感性」とおっしゃっていただき、低い鼻がちょっと高くなりました。

1週間くらいの合宿をしてまだまだお話が聞きたいと思ったインタヴューでした。