00

村田年

Minoru MURATA
千葉大学名誉教授
  • 1937年

    千葉県生まれ

  • 1960年

    千葉大学文理学部英米文学専攻卒業

  • 1960年

    東京都立上野高等学校教諭

  • 1966年

    東京都立東高等学校教諭

  • 1967年

    木更津工業高等専門学校講師 71年 助教授

  • 1976年

    千葉大学教養部助教授 88年教授

  • 1994年

    千葉大学教育学部教授

  • 1994年

    千葉大学外国語センター教授

  • 2003年

    和洋女子大学人文学部教授

『プロシード英和辞典』(初版、第2版)、『ニュープロシード英和辞典』編集委員。
『ロイヤル英和辞典』編集委員。

『プロシード英和辞典』(初版、第2版)、『ニュープロシード英和辞典』編集委員。
『ロイヤル英和辞典』編集委員。

  • 1937

    千葉県生まれ

  • 1960

    千葉大学文理学部英米文学専攻卒業

  • 1960

    東京都立上野高等学校教諭

  • 1966

    東京都立東高等学校教諭

  • 1967

    木更津工業高等専門学校講師 71年 助教授

  • 1976

    千葉大学教養部助教授 88年教授

  • 1994

    千葉大学教育学部教授

  • 1994

    千葉大学外国語センター教授

  • 2003

    和洋女子大学人文学部教授

01

Interview

インタビュー

2024.02.26 実施

  • 01.-

    辞書編纂に携わるようになるまで

    先生は小さい頃から英語に興味があったのですか。

    アンサーアイコン

    小さい頃は、英語どころか、病弱で何にも興味を持たない、ただぼーっとしている子でした。グズで泣き虫で何もできない子で、1歳違いの兄に手を引かれて泣きながら学校へ行って、一日うつむいて黙っていて家に帰ってくるような子でした。成績はクラスで最低。運動神経は鈍く、音痴。本を読むことが少し好きでした。

     

    将来の夢もほとんど何もないまま中学3年になって、将来の進路を決めなくてはならない。高校へは行きたくないから、百姓をやるよ、と言っても、うちには田んぼはない。父が、高校だけは出てなくてはと、二者面談で担任の先生と進学先を水産高校に決めてきました。当時は、先生と父兄で子どもの進路を決めてしまうのが普通のやり方でした。倍率が低く、誰でも入れると先生が言っていたよ、と。高校へ行くなら、みんなと同じ普通高校へ行きたいと、それからは隠れて勉強しました。配られた受験問題集で、まず数学を、そして理科、社会の問題を解いてみる。わからない時は教科書も読む。問題集が終わるとまた最初から何回も何回も解き直す。秋の模擬試験で成績が上がったので、志望を受験校の佐原一高へと変えました。

    高校に入って英語が面白いと思うようになったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    高校に合格したものの、英語はまったくわかりませんでした。中学1年の教科書を開いても1行も読めない。一から英語を学習し直しました。小川芳男・J. A. サージェント編の『英語入門』(旺文社)という本が家にあって、幸いこの本はすべての英語の単語にカタカナで読みが振ってあったので、カタカナを頼りにこの本を毎日声に出して読みました。他の科目はなんとかなったけれど、英語だけは先生の言うことがいちいちわからない。「be 動詞、え!なんじゃそれ?」「不規則動詞、何が不規則なの?」といった調子でした。リーダーは全然読めないので、虎の巻を買ってきて、そこに振ってあるカタカナで音読しました。毎日暇さえあれば「只管(しかん)朗読」をしました。ただただ声に出して、200回、300回と読む。ときどき止まっては日本語に訳してみました。単語はノートに取って全部覚えました。毎週書き取りの小テストがありましたが、いつも10点満点が取れました。ときどき先生が「10点は村田と…」と名前を言ってくれるのが嬉しかったですね。

     

    とにかく音読をしていました。毎日教科書の最初のページから読んでいきました。そのうち教科書を覚えてしまって開く必要がなくなって。歩いているときも、汽車の中でも、風呂に入っているときも、寝ていても、音読が頭の中で響いていました。ある単語を見るとすぐにその単語が出てくる一節が出てきました。一方で、現在分詞、進行形、関係代名詞といった用語が全然わからず、また、応用力がゼロだったので、文法をやらなければと思いました。英語の理屈の面でみんなに追いつくのに1年かかりました。2年生になってやっとみんなの話がわかるようになりました。

    そこからどのようにして大学で英語を専攻しようと思うようになったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    高校1年の時に、突然父親が職を辞して、うちはほとんど無収入になってしまいました。大学進学に金は出せないと言われました。兄はそれをものともせず、東京教育大で朝永振一郎先生(1965年にノーベル物理学賞を受賞)について理論物理をやると言ってひるむところがありませんでした。

     

    私も東京教育大に行きたかったのですが、とても自分で稼ぐ勇気がありませんでしたし、成績がいまひとつでした。もたもたしていると大学には行けなくなり、郵便局か役場に就職するほかなくなるぞと思って、合格圏だった千葉大学を受けることにしました。なにかがっかりして、勉強にもあまり身が入らなくなりましたが、千葉大の過去問はなかなか難しくて、それほど良い成績は取れませんでした。特に英語は難しかったと思います。英語科にしたのは、私も理数系の方が得意だと思ったのですが、兄がとにかく優秀で、兄と比べるとどうにも自信が持てず、それならせっかく苦労した英語でも勉強して先生にでもなるか…といった消極的な選択でした。

    何をきっかけに変わられたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    教育実習です。中学2年生のクラスを担当して、性格が変わりました。実習先の目の前にアパートを借りて3週間の実習をしました。放課後には子どもたちが遊びに来て、土曜日には一緒に海に行って。生徒と仲良くなって楽しかったですね。担当の先生が教えていた1年生から3年生の授業を全部やりますよ、と持ちかけて。

     

    自分の意見を言う。先生に質問する。進んで係を引き受ける。変わりましたね。

    学部時代はどのような勉強をされていましたか。

    アンサーアイコン

    学部時代は、文学研究を行っていて、とにかく調べて調べて、たくさん読む、メモをとる、ということをしていました。卒業論文ではディケンズを扱いました( “The Art of Charles Dickens with Special Reference to Great Expectations”)。ディケンズ文学の専門家である小松原茂雄先生に褒めていただいて、嬉しかったですね。旺文社の『エッセンシャル英和辞典』を使っていたと思います。

    研究のご興味が文学から英語教育、辞書へと移って行ったのは、高校、そして高専にお勤めされていた影響でしょうか。

    アンサーアイコン

    大学を出て都立高校の英語教員になり、7年半務めました。その後、恩師から木更津工業高等専門学校へ推薦したからとの電話を受け、29歳で木更津に赴任しました。研究日には、聴講生として東京教育大学へ、夜は都立大学大学院へイギリス文学を学びに行っていました。一方、高専でリーディングを教える中で、テキストの注釈がおかしかったり、翻訳がおかしかったりすることに気がつきました。ヘミングウェイの『老人と海』など、私が見たところたくさんおかしいところがあったので、学生が翻訳を参照してくるとすぐにわかるんですね。そこで、なぜ誤訳が起きるのだろうと、単語の意味に興味を持つようになりました。そこで、文学研究から、日英語の比較研究に舵を切ることになりました。最初の論文「日本語と英語における省略法の相違について」(1969)では、日本語の 「省略された主語」 の翻訳で、ドナルド・キーン氏の誤訳を指摘し、さらにのちにサイデンステッカー氏の誤訳を指摘しました。

    初めての辞書のお仕事はどのようなものでしたか。

    アンサーアイコン

    コンサイス英英辞典』(1978)です。木更津高専の講師になって少し経った頃、先輩の求めに応じて、恩師の木暮義雄先生が編集していたこの辞書を読んで、気がついたことを書き留めては届けるといったことを何年か続けていました。この辞書はたいへん珍しく、見出し語の意味が、まずはやさしい英語で解説され、それに日本語の訳語が1つか2つついていました。他の英和や英英辞典と読み比べては、色々なことを考えました。実際に辞書に書くことは簡潔にと心がけましたが、実際に採用された修正は少なかったのではないかと思います。それでもこれは私の初めての辞書の仕事で、たいへん勉強になり、ことばの意味について考えるくせがつきました。

    • -1

      https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dict/ssd10227
    • -2

      『コンサイス英英辞典』第4版(1978)(三省堂編集所編・編集主幹木暮義雄)の「第4版の序」には以下のようにある:「この第4版の発刊にあたり、当初よりご協力を賜った、天野一夫、(中略)村田年、田島伸悟、竹下良介の諸氏、および Dr. Philips, Professor Mills など多数の方々のご労苦、ご好意に深く感謝の意を表する。」

  • 02.-

    『ロイヤル英和辞典』・『プロシード英和辞典』の執筆

    出版年は『プロシード英和辞典』(1988)より後ですが、先に携わられたのが『ロイヤル英和辞典』(1990)ということで、経緯を教えてください。

    アンサーアイコン

    『ロイヤル英和辞典』は、宮部菊男先生が中心になって進められていた辞書でした。執筆に関わっていた多くの方が、先生の東京大学での教え子なのではないかと思います。私自身は、旺文社の編集部から仕事の依頼がありました。

     

    以前から、多義語の意味記述に興味がありました。例えばある辞書で break を引くと、他動詞だけでも17に分かれている。どうしてこのように多義になってしまったのか、この17個の意味をつなげるとすればどうなるか、その場合「基本的な意味」あるいは「中心となる意味」はあるのかどうか。また、そのつながりかたは語によって異なっていて一貫性がないのかどうか、このようなことを頭の隅に置いて、ときどき持ちだしては考えていました。繰り返し、何度も何度も考えては紙に書いていました。

     

    東大の池上嘉彦先生の著書・論文からヒントを得て、すべての語の意味変化は構造をなしており、類似性(メタファー的意味変化)と近接性(メトニミー的意味変化)の2つに分けて体系化できるとの確信を得て、英語の基本語を1語ずつ構造化していくと同時に論文を書いて何度も何度も発表しました。それを編集部がご覧になったのか、宮部先生がこのような目で基本語の原稿の語義を見てもらいたいとおっしゃっていたと、仕事の依頼がありました。

    執筆の仕方はどのようにして身につけたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    担当したのは基本語の意味記述でしたが、約5000の基本語の意味記述には個人的な見解があり、自信があったんですね。すでに論文も何点か発表していました。1語全体の語義を「適用型」と「展開型」として構造化しました。この構造化を応用して、学習用の単語集にまとめたのが『基本英単語の意味』(1985、三修社)です。ですので、基本語の語義を選ぶ、語義の関係、順番、つながりなどを決める、ということをただひたすらに進めました。

    執筆でご苦労されたことはありましたか。

    アンサーアイコン

    初稿が出始めたところで宮部先生が急逝されて(1981年)、プロジェクトが止まってしまったところに私が入ったので、そこから9年かかりました。編者の杉山忠一先生(故東京大学名誉教授)が中心になって、非常に多くの用例を集めて作られて、なかなかいい辞書でした。特に、翻訳者に評判がよかったですね。

     

    毎週あるいは隔週、旺文社に通って、初稿原稿をいただいて帰りました。編集者と一緒に作業をしましたが、他の編者、執筆者にお会いすることはなかったですね。私の名前を「編集委員」に入れてくださったのは、旺文社の編集部の計らいです。関根文夫さんという大変熱心な課長さんがいらして、命がけといってもいいくらい、本気で取り組まれていました。

    • -3

      まえがきに「原稿執筆開始に先立つ準備期間中に、執筆者と編集部の手で、補助資料としてカードに採録した用例約5万。」とある。

    『プロシード英和辞典』(1988)も基本語の執筆をなさったんですよね。

    アンサーアイコン

    編集部からお声をかけていただいて、編者の先生方とも親しかったので、お引き受けしました。編集委員の間で分業体制になっていて、私は基本5000語の意味を担当させてもらいました。私の仕事の中心は、1つの単語の意味をできる限り体系的に示すこと、すなわち、I.1.a.b.c.  2.a.b. 3.a.b. II.1.a.b. …といったように学生・生徒が1つの単語の意味につながりがあることを理解して覚えられるようにすることでした。

     

    編集者の竹内新さんが大変熱心で、執筆のために必要な資料を全部データ化して、千葉の私の自宅にパソコンとサーバーとを設置してくれて、その頃はまだ電話回線ですから、電話代も払ってもらって(笑)データベースを検索していました。竹内さんがよく自宅に来て、二人で辞書を作っているような気がするほどでした。

  • 03.-

    英語教育と辞書研究

    学生に英語を教える中で、日英語比較研究に興味が移っていったことを伺いましたが、英語辞書を研究のより中心に位置付けられていったのにはどのような背景があったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    千葉大へ移って少し経った1978年、40歳の時に、ロングマン社から『ロングマン現代英英辞典』(Longman Dictionary of Contemporary English (LDOCE))が出版されました。さっそく買って読んでみたら驚きましたね。語の意味説明が具体的でわかりやすく、例文も豊かで、すぐに使え、文法の説明も具体的・体系的で、わかりやすい。何よりもよかったのは、意味の説明と例文のすべてが2000語の「定義語彙」で書かれていることです。この2000語さえ覚えてしまえば、この辞書を使いこなすことができる。これなら日本の大学生が英英辞典として使えると思いました。

     

    この辞書を詳しく研究して、英和辞典に役立てる手を考えたいと、気がついたことをカードにしていました。JACETの夏期セミナーにロンドン大学の看板教授であり、LDOCE の編修顧問と言ってよいランドルフ・クワーク教授がいらっしゃることを知り、申し込みました。クワーク教授の連続10回に及ぶ講義もよかったのですが、それ以上に毎日朝、昼、夕と食堂で、また夜遅くまでビールを飲みながら、辞書カードを材料に質問することができたのはよかったです。

     

    講師の先生方、多くの参加者との楽しく充実した12日間を過ごし、帰宅したらさっそくLDOCE の分析研究の論文を書いて発表しました。英英辞典の語義記述をもとにして英和辞典の意味の記述はどうあるべきか、これがその後の私の研究課題の1つとなりました。

    当時はまだ「辞書学」という言葉も一般的ではなかったと思います。

    アンサーアイコン

    辞書に命をかける学者もいらっしゃいましたが、一般的には辞書の仕事は大学教員のアルバイト、頼まれてちょっと書く原稿料稼ぎに過ぎないところもありました。

     

    辞書の歴史的研究や語法の研究は確立されていましたが、辞書の編集、辞書全体の記述内容についての研究は見られませんでした。1970年代から1990年代にかけて多くの英英辞典、英和辞典が刊行されましたが、辞書を研究し、論文を書き、これを自分の主たる専攻分野とするといった考えはまだまだ一般的ではありませんでした。欧米を見ても、北米辞書学会(DSNA)の創設は1975年ですが、紀要第1号は1979年です。ヨーロッパ辞書学会(EuraLex)の創設も1983年と遅く、1980年代になってやっと辞書研究体制が始まったと言ってもいいのかと思います。

     

    日本には早くから岩崎研究会があり、1960年代にすでに優れた詳しい辞書分析が行われ、Lexicon に発表されていました。これは特記に値することだと思いますが、その活動は広く知られてはいませんでした。

     

    また、ガブリエル・スタイン博士は博士論文の中で、林哲郎先生と永嶋大典先生の論文を繰り返し引用し、参照されていました。この両先生は日本の学術研究のレベルの高さを欧米に示してくれたのだと、深い感銘を受けました。

    先生は辞書の書評も数多く書かれていますね。

    アンサーアイコン

    辞書についてたいした仕事もしてないのに、偉そうにたくさん書評をしました。自分の仕事の弱点は棚に上げて、旺文社の『サンライズ英和辞典』などの学習英和辞典から『ランダムハウス英和大辞典』などの大英和、『新リトル英和辞典』などの小英和、Webster’s Ninth New Collegiate Dictionary などの英米の辞典まで頼まれれば何でも分析して書評を書きました。辞書の研究書も含めると30編近くになりますかね。

     

    辞書は大部でページ数があり、これを読むのはたいへんで、また書評は原稿用紙2枚とか3枚で、スペースがなくて、内容のある記述をし、しかも読者が買いたくなるように仕向けるのは難しいです。それで進んでやろうという先生は多くないですね。

     

    何度もやっているうちに、辞書を見るときの大きな柱とその1つ1つの検討の仕方は自己流ながら決まってしまい、たいていの辞書は1週間あれば、その利点・欠点は詳しく具体的に指摘できるようになりました。見出し語数、発音、語義、文型と語法、用例など検討すべき項目を決めていました。

     

    見出し語の数は、そんなのわかってるでしょうとおっしゃるかも知れませんが、これがわからないのです。たいていの辞書は収録語OO万語と宣伝しますが、この「収録語」=「見出し語」ではありません。辞書の収録語は、ふつう「主見出し語」だけではなくて、中見出し、小見出し、追い込み見出しなども含めます。英国の辞書はだいたいこのようにしてきて、たとえば、CODConcise Oxford Dictionary)の第7版は、75,000語と称していたけれど、主見出し語は約40,000語でした。アメリカでは多くの辞書は、それに加えて、名詞、動詞など品詞別、さらに不規則変化形、綴りの異形、成句、接頭辞や接尾辞をつけた形も1語として数えます。その結果、収録語は主見出し語の2倍、あるいは2倍を超えることもありました。20万語の辞書と言っても、実は見出し語は10万語以下だったり。CODも第8版では12万語と宣伝されていましたが、数えてみると、約45,000語で5,000語増えただけでした。日本の英和辞典の場合は、アメリカより、さらにイギリスよりも内輪に数えていて好ましいですね。ただ、研究社の『リーダーズ英和辞典』は当初「26万語」として大きな話題になりましたが、私が数えたところでは19万語ぐらいでした。

  • 04.-

    JACET英語辞書研究会(1995~)

    JACET英語辞書研究会を立ち上げることになったきっかけを教えてください。

    アンサーアイコン

    英語の辞書を研究している人たち、または研究したいと思っている人たちを集めて研究のための情報交換をする。そんなことができないものかと、漠然と考えていました。そんな時に、1999年に国際応用言語学会(AILA)の大会を JACET が主催して日本で開催することになりました。私も役員の端に入れられて、それぞれの専門分野でシンポジウムや研究発表を企画することになったんですね。そこで、シンポジウムを開催して、「辞書研究」が専攻分野の1つとして認められるようにしたいと思ったことが始まりです。

    辞書研は、その目的ではっきりと、既発表の論文についての発表を認めたり、「多忙なため発表予定のない方の参加も歓迎する。全体としてリラックスして自由に意見交換ができるようにしたい。」と、自由な意見交換のための雰囲気作りを大事にしているところが特徴的かと思います。これは先生がこだわられたところだと思うのですが、このような理念はどうやって生まれたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    1995年の夏休みに学生を連れてメルボルンのモナッシュ大学へ行きました。そこでメルボルン大学とモナッシュ大学の外国語教育と言語学のスタッフと大学院生が運営している社会言語学研究会の例会に出席したのですが、その大変ゆるく、フランクな運営に感心しました。気軽に全員が発表する、まだアイディアが煮詰まらないものでも皆にぶつけて、さんざん叩かれて研究に弾みをつけるといったことも許されるようでした。

     

    これはおもしろいと思って、帰ってきて南出康世先生(大阪女子大学名誉教授)に相談したところ、おもしろい、やりましょうと、おっしゃってくださいました。それで、JACETのSIGという形で発足することにしました。

    1995年の発足後、会員数はどんどん増え、年に一度開催されるワークショップでは参加者が100名を超えるまでになりました。研究会の発展の背景について教えてください。

    アンサーアイコン

    当時、井上永幸先生が始めてくれた「辞書学メーリング・リスト」が極めて活発で、毎晩みなさんいろいろな語法・辞書に関する問題について意見を交換していました。私もこれを読み、意見を書きこむのが楽しかったですね。おそらく150名ぐらいが登録していたのではないでしょうか。

     

    なんとかこれらの研究者を一堂に集めて話し合う機会が持てないかと思いましてね。シンポジウムを開くのはどうだろうかと何人かに相談して賛成を得て、研究が活発な関西から2名、関東から1名の講師をお願いすることにしました。最初に依頼をした、南出康世先生、井上永幸先生、赤須薫先生がお引き受けくださり、スムーズに仕事は進みました。1996年12月14日に旺文社の大会議室で「英語辞書編集の今日的課題」と題して開催。66名もの参加者を得て、英和辞典の編者として有名な先生方も参加されて、活発な議論が3時間を超えて続き、大成功でした。

     

    このシンポジウムの直後、ML上でしばらく議論が続きました。多くの書き込みを読むうち、みんなが発表の場をほしがっているのだとわかりました。そこで、参加者のすべてが発表、司会、質問のいずれかで参加するワークショップ型の「研究発表会」を持つことを運営委員会に提案しました。

     

    研究発表会を「ワークショップ」と名付け、第1回を最も活発な関西で開きたいと思い、赤野一郎先生(京都外国語大学名誉教授)に打診したところ、快く会場を引き受けてくださいました。有難かったですね。「英語の辞書」といった大きなタイトルで発表者を公募したら30名ほどの希望者がありました。どうせなら4室40名にしたいと思って、南出先生に、あと10名ほどほしいと伝えたら、「誘ってみましょう」と10名誘ってくれました。南出さんの実力と指導力にただただ敬服しましたね。結局、第1回ワークショップは1997年12月13日に発表者40名、参加者160名でした。このときもその後しばらくの間ML上で議論が続きました。

     

    これ以後ワークショップは慣例となりました。多くの若い研究者が生まれて初めての研究発表を経験し、中年以降の方でも初めて発表し、ただ聞いていたときに比べて、研究会の景色が異なってきた、との報告を何度も受けて、やってきてよかったと思いました。

    日本で「辞書学」が1つの学問領域として確立されるようになったのは、この研究会を足場として、村田先生が数多くの国際学会やシンポジウムを展開されたことも非常に大きな要因となったと思っています。先生の人を巻き込んでいく力は本当にすごいですよね。

    アンサーアイコン

    設立のきっかけとなった AILA ‘99 では、アジア辞書学会の事務局を担当されていたエイミー・チ先生と韓国からハン・ヨングン先生、宮井捷二先生(東京外国語大学名誉教授)を講師に、シンポジウムを開くことができました。

     

    2003年8月には「第3回アジア辞書学会」を千葉の明海大学で開き、招待講演7件、シンポジウム6件、研究発表58件、ポスター発表12件、全発表者144名、予稿集は英文で500ページ、参加者10数か国から233名を得ました。非常にアジア的だと思ったのは、会長には投野由紀夫先生を推したのですが、まだお若かったため、私が引き受けることになりました。投野先生が会場を引き受けてくださって大変に助かりました。

  • 05.-

    電子辞書研究会(2002〜2012)

    先生は電子辞書研究会も立ち上げていらっしゃいます。こちらはどのような経緯があったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    カシオ教育研究所の平山泰夫さんから依頼がありました。数学教育の先生方に電卓教育研究会を創って頂いて、電卓の改良と活用を目的に活動して頂いているが、同じような研究会を電子辞書でも創って頂きたい、研究会のみなさんの研究促進にカシオ(株)ができる限りのご援助をしますからと。JACET英語辞書研究会の運営委員と相談して、この話に乗ってみようということになり、辞書研究会の活動メンバーを中心に運営委員会を立ち上げました。

    商業的側面がより強い感じがしますが、先生としてはどのような狙いがあったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    研究会の趣旨としては、使用者側(学生・教員)と製作者側との交流、辞書研究者と製作者との交流、書籍版辞書製作者と電子辞書製作者との交流が生まれるといいな、と考えました。また、辞書研究のさらなる発展のために、研究会や学会等の運営へのご支援も趣旨に盛り込んだところ、カシオ教育研究所から全面的な賛意をいただいたので、おもしろいことができるかな、と思いました。

    電子辞書に懐疑的な人にもまずはモニターとして使ってもらって、改善点をフィードバックしてもらいたい、と会員全員に、最新機種の電子辞書をご提供いただいたり、カシオさんの立派なビルで懇親の場も設けてくださったり、資金力を感じました。

    アンサーアイコン

    交通費のご負担もしてくださったので日本全国から研究会に参加者を得ることができました。多くの会員が電子辞書に関する研究(学習者の検索行動や、紙辞書と電子辞書の学習効果の比較など)を発表するなど、カシオさんの期待にも応えられていたかと思います。

    電子辞書が急速に普及したこともありますが、JACET英語辞書研究会同様、あっという間に研究会も拡大していきましたよね。

    アンサーアイコン

    第1回電子辞書研究会(2002年3月25日)への参加者は33名でしたが、会員が増えていったので、毎年の研究会の参加者を幹事とし、特別企画の参加者を一般会員とすることにしました。2004年の公開講演会では、北海道からも沖縄からも来て頂いた16名の講師と、204名もの一般会員参加者を得ました。また、小中高大の教員に対する「電子辞書講習会」を全国で開きました。40名募集でいつも満杯の参加がありました。

    『大学生のための電子辞書活用ハンドブック』の刊行はどなたのアイディアだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    これもカシオ教育研究所の平山さんから作成の依頼がありました。学生たちは電子辞書を持ってきて使っているけれども、辞書の構成や記述について理解が足りず、電子辞書がかえって英語学習の妨げになっている場合もあるので、活用ハンドブックを作る意義は十分にあると思いました

     

    そこで辞書研究会の若手活動メンバー5名に執筆を依頼しました。全員から「やります」とのご返事をもらい、すぐに執筆日程と目次案を作りました。出来上がったハンドブックは、その後も年度ごとに改訂をして、各大学の生協や書店に並べて、ほしい学生に差し上げました。先生方や学生たちからいろいろな意見が寄せられ、できるだけそれに応える形で改訂を重ねました。

     

    その後印刷の予算が取れなくなり、カシオ(株)さんのホームページに掲載してネット上で参照してもらうことになったりと、だんだんと縮小せざるをえなくなりました。

    • -4

      「いっぽう、英語教師の電子辞書に対する関心は薄く「はじめに」、教室への持ち込みを禁止したり、辞書携帯可の試験でも電子辞書だけは禁止といった状況も耳にします。そこまではいかなくても、消極的な黙認が教師の一般的な態度のようです。なんの指導もなく、学生たちが電子辞書を使用している状況で、いろいろな問題が生じてきているのが現状です。」(『電子辞書活用ハンドブック』(2004)「はじめに」)

    • -5

      執筆者:石川慎一郎、小川貴宏、望月正道、森口稔、山内豊

    「電子」辞書研究会でしたが、大元のデータは紙の辞書で、電子媒体であるからこそ可能になることや、活用すべき機能もありますが、根本には「辞書」を(英語)学習においてもっと活用しよう、と「辞書」が中心にあったように感じています。

    アンサーアイコン

    電子辞書は学習のためのツールなので、電子辞書に限らず、英語学習における辞書活用法、より豊かな英語学習のためには、ということを考えていました。電子辞書に慣れて調べ学習ができるようになったら、ぜひとも「紙の辞書」をじっくり読む、楽しむこともしてほしいと思っていました。

    カシオは電子辞書市場においてトップシェアを誇っていましたが、電子辞書の売り上げが 2007年にピークを迎えたあと、スマートフォンの普及に伴って売り上げ全体は落ちていきました。研究会の終了にはそういった事情があったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    研究会は順調に進んでいると私たちは思っていたのですが、カシオ(株)さんとしては、東日本大震災を受け、また電子辞書の売上の頭打ちに会い、幹事が50名にもなった研究会を支えるのが困難になったと相談がありました。会社側の担当者及びカシオ教育研究所の幹部も変わったことで、考え方も変わった印象もありました。研究会の運営委員の協議、カシオ教育研究所との交渉の結果、2012年3月16日の第10回研究会をもって研究会を解散しました。

     

    研究会活動の中で、私の印象に強く残っているのは『中学生のための 電子辞書 活用ハンドブック』(2011年)の作成です。協力いただいた中学の先生方があまりにも多忙で、なかなか完成にいたりませんでした。日曜日でも集まってもらうことができなく、私が中学へ出向いて、先生方の用事が済むまで、夜まで待ったりしました。中学の先生方がいかに忙しいか、想像以上でした。国語、社会、数学、理科、英語の先生に執筆をお願いし、さらに全国の27名の中学校関係者に寄稿頂いて、科目を超えての検索の手引きができたかと思います。

  • 06.-

    辞書執筆者・編集者に必要な資質

    辞書執筆者に必要な資質とは、どのようなものでしょうか。

    アンサーアイコン

    好きで好きでついついやってしまうという好奇心がまず必要だと思います。お付き合いのあった優秀な方々をみるとみなさんそうでしたね。辞書には問題が多くて―世の中に完全なものはないですが―それを改善するために、とにかく調べまくって、たくさん読んで、どんどんメモをとっていると、知的好奇心がどんどん膨らみますね。そして、「草刈る人は野の果てを見ない」これだと思います。目の前の草をひたすら刈っていく。最初からきちっと色々な計画を立ててその通りにやろうと思ってもそうはいかないですから。ねばり強さ、ことばの意味への執念があるといいですね。

     

    原稿はともかく書き進める。悩み過ぎない。もう一度自分か、だれかほかの人が見てくれると思って先に進むことです。小島義郎先生(故早稲田大学名誉教授)がよくおっしゃっていました:「原稿が遅れる人が多くて。結局たくさん私の方で書いてしまうんですよ。」と。

     

    また国語辞典にも大いに関心を持って、よく引く、国語辞典の歴史や編者のエッセイを読むこと、英語の単語とそれに相当する日本語の単語を見比べる、この日英語の比較にもうんと興味を持ってほしいですね。

    辞書の執筆はどのようにされていましたか。

    アンサーアイコン

    大きめの机、大きくて2階の窓から入れたような机に、さらに大きなベニア板を敷いて、まず机の上に辞書を並べました。そして、左右に椅子を置いて、その上に小さめの辞書を置く。椅子の下にもいくつか辞書を縦に置いて。座ったままで30冊程度の辞書を参照できるような体制を作っていました。

     

    今ほど大学が忙しくありませんでしたので、辞書の仕事ばかりしていました。毎晩、5年、10年としていました。人よりも早く進めて、遅れている分を請け負ったり、出版社の相談に乗ったりしていました。出版社の編集者とは非常に親しくなって、よくうちに来られたり、部署を異動されてからも連絡をくださったりしました。

  • 07.-

    英和辞典の今後

    英和に限らず辞書全般、苦しい状況にありますが、これからの英和辞典をどのようにお考えでしょうか。

    アンサーアイコン

    辞書だけを、特に紙の辞書だけを頭においては厳しいでしょう。調べるためのツールの一つとして位置付けて考えることが大切だと思います。かつては英和辞典は、調べ学習の最も頼りになる資料でしたが、今後は、疑問点を調べるツールのひとつとして。また、デジタルといかに組み合わせていくかが肝でしょう。

     

    一方、学習用として紙の辞書の意義は大きいと思います。より大きく複雑な辞書は、紙の辞書で全体をよく見て理解して使いたいと思うことがあります。英和ではないですが、大修館の『類語検索辞典 日本語シソーラス』などは、CD-ROM でも売っていて便利ではあるんですけど、CD-ROM だけを使っていても今ひとつよくわからないんですね。

     

    そして、たとえさほど売れなくても、教育として辞書は大事ではないでしょうか。調べることの基本です。国がもっと教育にお金を出さないといけませんね。出版についても積極的に助成をし、研究や教育に関する出版であれば助成があって当然だということをしない限り、ジリ貧かもしれませんね。北欧では、国家予算をさまざまな方面に使っています。新しい企画、シソーラスなどには、ある程度の国家予算援助があるべきだと思います。

02

08.-

インタビューを終えて

村田先生は、「ものぐさガーデニング」という写真付きエッセイを、ご定年後からずっと配信されていて、2024年1月23日時点で268号まで続いています。ガーデニングの要素はほぼ写真とそのご説明だけで、本文は(英語)教育や辞書に関する先生のお考えや想いが綴られています。このインタビューは過去の配信に基づいて行われています。

わたしはJACET英語辞書研究会でも、アジア辞書学会でも、電子辞書研究会でも、村田先生にお世話になってきました。ありとあらゆる場面でご一緒させていただいていたにも関わらず、先生のご活動の真意というのが若い頃は見えておらず、振り返って、どんだけばかなの…と自分に呆れ返ります。

また、大御所の先生方とそのお弟子さんが紡ぐ伝統が縦糸だとしたら、村田先生はそれらを繋いだ横糸で、日本の「英語辞書学」を織り成した方だと思います。学術論文を書き、それを読んでもらいたい言語学者・出版社に送る。「偉い先生というのはお返事をくださるものなんですね。」とお返事があり、そこから親交を深める。そこにあるのは純粋な学問的興味だけで、あれもこれもと動かれるのも学問の発展のため。村田先生に頼まれると断れない…。何人もの方から聞いたことばです。

それにしても、辞書の執筆が大学教員の「お小遣い稼ぎ」になっていた時代…羨ましい…。