小寺先生の存在を初めて知ったのは、私がまだ学生の時でした。delexical verbs の研究をしていて delexical V + (a) + 形容詞 + 名詞のパタンについて調べる中で、先生の論文に行き当たりました。現在のようにオンラインでささっと文献を入手できるわけでもなく、先生にご親切にも抜き刷りを送っていただいたことがありました。こんなに親切にしていただいたのだからしっかり研究をまとめなくてはいけない、と強く思った記憶があります。先生に直接お会いしたのは、このインタヴューが初めてだったのですが、その時に得た印象のままでした。色々とお話を伺う中で、大学でも行政職を押し付けられた(失礼)のではないでしょうか、と水を向けてみたところ、入試部長や学部長まで務め上げていらっしゃいました。(存じ上げなかったとはいえなんたる失礼を。)さらには、労働組合では万年書記長または委員長として戦っていらしたという…。通訳ガイドのお仕事をされていた時点で人間力、コミュニケーション力が高く、奉仕の精神に満ちていることは確定なわけですが、これには驚きました。そして、バランス感覚とやらねばならないことに粛々と取り組まれる姿勢は辞書執筆にも結びつくのではないかと思います。
小寺正洋
Masahiro KODERA- 1956年
広島県生まれ
- 1980年
関西学院大学文学部英文学科 卒業
- 1980年
大阪市立我孫子中学校 教諭
- 1983年
ダルハウジー大学教育学研究科 教育学修士(MEd)
- 1983年
大阪外語専門学校・京都YMCA 非常勤講師
- 1984年
通訳案内業(藤田トラベル,近畿日本ツーリスト)
- 1987年
京都YMCA国際教育部 主任講師
- 1992年
京都聖母女学院短期大学国際文化学科 専任講師、2000年 助教授
- 2007年
ケンブリッジ大学応用言語学研究科 英語・応用言語学修士(MPhil)
- 2009年
阪南大学国際コミュニケーション学部 教授
- 2018年
バーミンガム大学 博士課程(英語・応用言語学)在籍中
- 2024年
阪南大学定年退職
『ウィズダム英和辞典』初版〜第3版執筆者
『ウィズダム英和辞典』初版〜第3版執筆者
- 1956
広島県生まれ
- 1980
関西学院大学文学部英文学科 卒業
- 1980
大阪市立我孫子中学校 教諭
- 1983
ダルハウジー大学教育学研究科 教育学修士(MEd)
- 1983
大阪外語専門学校・京都YMCA 非常勤講師
- 1984
通訳案内業(藤田トラベル,近畿日本ツーリスト)
- 1987
京都YMCA国際教育部 主任講師
- 1992
京都聖母女学院短期大学国際文化学科 専任講師、2000年 助教授
- 2007
ケンブリッジ大学応用言語学研究科 英語・応用言語学修士(MPhil)
- 2009
阪南大学国際コミュニケーション学部 教授
- 2018
バーミンガム大学 博士課程(英語・応用言語学)在籍中
- 2024
阪南大学定年退職
Interview
インタビュー2024.08.07 実施
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01.-
辞書執筆者になるまで
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英語との出会いについて教えてください。
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最初に英語に触れたのは小学6年生の秋です。中学校で初めて英語を習うのに困らないように、という気持ちからだったと思いますが、母親の勧めで小さな私塾に通うことになりました。畳の部屋で正座をしながら10人程度で教科書を予習するものでした。今思うと、その先生が発音を丁寧に教えてくれたのはよかったのかな、と思いますし、中学校での英語の成績も悪くありませんでした。中学校では、旺文社の『ジュニア英和辞典』を使っていたような気がします。
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英語が好きになったのはどのようなきっかけだったのでしょうか。
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時代でしょうか。中学生の時にアポロが月面着陸をして、同時通訳者が脚光を浴びました。大阪万博もありました。英語を勉強しようと思ったきっかけは、同時通訳者への憧れです。高校生の時は、鳥飼玖美子先生が私にとってのアイドルでした。先生がNHKの番組に出ると必ず見ていました。鳥飼先生はAFS留学試験に合格してアメリカに留学し、上智大学外国語学部で学び、英検1級に最優秀で合格、通訳案内業試験にも合格された。同時通訳者になるには、外国語学部に進学して、そしてアメリカ留学をする、英検にも通訳案内業にも合格しなくちゃいけないと思っていました。完全にミーハーです(笑)。
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大学に進学して英語を学ぼうと考えることに迷いはなかったわけですね。
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そうですね。ただ、高校で多少英語はできましたが、田舎の進学校のレベルではたかが知れていました。浪人して予備校に通い始めると、全国における自分の位置をより客観的に認識するようになり、勉強に力を入れるようになりました。結局、憧れの上智大学外国語学部には落ちてしまって、南山大学と関西学院大学に合格しました。外国語学部と考えていたわけですが、当時地元の広島では南山大学の知名度があまり高くなくて、大学に行っても英語の勉強をするのは自分次第だからと考えて、関学の文学部に行くことにしました。
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学部時代にはどのように英語を勉強されていたのでしょうか。
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入学当初は受験勉強から解放されて少し気が抜けてしまいましたが、1年生の秋に、英語の勉強をしに来たんだ、と自分で自分に気合を入れるために英検1級の試験を受けました。当然、落ちました(笑)。鳥飼先生は、英検1級と通訳案内業の資格を取っていましたから、まずはそこを目指さないといけない。そこから自分で英語の勉強に取り組むようになりました。勉強方法は極めて単純で、英字新聞を読むことでした。ジャパン・タイムズの1面を毎日読むことを自分に課していました。1面を読みながらわからない単語に赤線を引くと、紙面が真っ赤になる。それを端から全部、辞書を引きながら読み直しました。その時に主に使っていた研究社の『新英和中辞典』は今でも手元にありますが、手垢で真っ黒です。新聞広告を見てこの辞書が良さそうだと思って買ったことを覚えています。英検1級は6回挑戦して4年生の夏にやっと合格することができました。鳥飼先生は最優秀での合格だったようですが、私はギリギリの合格だったと思います(笑)。
通訳案内業試験についても勉強していましたが、独学で学んでいるだけではなかなか合格できなかったので、大学4年生の時に、諦める前にどうしても、と親に頼んで大阪にあった通訳ガイド養成所に行かせてもらいました。そのお陰もあって、3回目の受験でやっと通訳案内業の試験にも合格することができました。
当時は、英語を話す機会も耳にする機会も国内ではほとんどなかったんですね。リスニングは、Trinity College 英語検定試験とタイアップした英語教材を利用して勉強していました。また、まだ白黒でしたが、東京12チャンネル(兵庫県ではサンテレビ)で放送していたアメリカCBSの医療ドラマ「外科医ギャノン」(原題 Medical Center)の日本語音声をゼロにして見ながら、同時に日本短波放送から流れてくる英語のセリフをまったくわからないのだけれども聞いていました。難しい試験に合格したものの自分の英語力が足りないことはよくわかっていたので、やはり留学をしたいなと思っていました。
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英検1級、通訳案内業試験に合格されて、あとはアメリカ留学をするだけ、というところでまずは中学校の英語の先生をされていますね。
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実は、4年次に留学試験に合格することができたのですが、同時に大阪市立の中学校教員の採用試験にも合格しました。教員試験に合格するのもなかなか難しいのだからと説得されたり、また自分でも安易に考えて、教員になっても休みの日に英語の勉強をしっかりすればいいと思って教員になりましたが、考えが甘かったですね。土日も夏休みも部活動(軟式テニス部)の指導をするので勉強する時間はほとんどないんですね。それでも、通勤時間を利用して、英字新聞を読む、ということはずっと続けていました。時間の制約を自分に与えて、ストップウォッチを片手に持って(笑)わからない単語には赤線を引いて調べる。その時には、母語話者向けのMacmillan Contemporary Dictionary を愛用していました。職員室で単語の意味を確認していると同僚の先生にはそんな辞書を使って勉強をしているのかと驚かれました。部活動がない休日には、近くの喫茶店に篭って Time を読んでいました。これは同時通訳者の松本道弘氏の影響です。
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その後、カナダのダルハウジー大学の大学院で修士課程を修めていらっしゃいます。
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中学校で教えながら英語の勉強を続けていましたが、とても辛くてこのまま継続するのは自分には無理だ、このままだと後悔すると思ってもう一度留学試験を受けました。そこで合格することができて、アメリカに気持ちは向いていましたが、なるべく日本人がいない環境がいいだろうと思って、アメリカよりはカナダ、西海岸よりは東海岸ということで、選択肢の中からカナダのダルハウジー大学を選びました。東海岸のノバスコシア州の州都ハリファックスにあり、冬にはマイナス20度にもなるようなところです。実際に行ってみたら、学部に一人、修士課程に私一人、博士課程に一人、と日本人は3人しかいませんでした。ファカルティにお一人いると聞きましたが、お会いすることはありませんでした。
英語は読む分にはそんなに困らない、講義を聞くのもそこまで困らない(もちろん読んだり書いたりするスピードはカナダ人の学生に比べればずっと遅かったと思います)、けれどもエレベーターでカナダ人同士が話をしているところに乗り合わせると何を話しているのかまったくわからない、といった感じでした。また、日本では、しんどくても自分を追い込んで追い込んで英語の勉強をしていましたが、目標であった留学が実現して英語だけの環境に身を置くようになったら、自分を追い込むものがなくなってしまって目的がわからなくなってしまいました。手段が目的に変わってしまっていたんですね。最初は、同時通訳になるなら政治に通じていないといけないだろうと政治学を専攻することにしていたのですが、歯が立たず、教育学に変更したりで、留学の目的がまったくアカデミックではなかったんです(笑)。
けれども、1年目が終わる頃には聞き取りにそんなに困らなくなり、2年目が終わる頃には、日本語で考えて英語で話すのではなく、自然に英語を話している自分がいることに気がつきました。本当はいけないことだったのですが、それほどの蓄えがなく留学してしまったので、アルバイトを探していたところ、アジアのことを研究しているアメリカ人の先生でワイナリーを所有されている方がいて、その先生のブドウ園で夏の3ヶ月間、住み込みアルバイトをしました。2年目の夏は、アルバイトのリーダーとして他の人に指示をしたり、先生が長期留守にされる間、私よりも大きなジャーマンシェパード二頭と留守番をしながら訪問者の対応をしている時にふと、「俺、英語喋ってるやん。」と思ったことを覚えています。2年間の留学を終えてもうすぐ帰国するという頃に、「やっと英語が話せるようになったなぁ!」「これで留学に来た甲斐があった!」と思い、ホッとしました。そこで満足せずに博士課程にでも進んでいれば、もっと英語力も上達していただろうと、今になって思います。
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色々あったにせよ、計画通り英語力を伸ばして帰国されて、通訳ガイドとしてお仕事を始められたのですね。
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アカデミックの世界に進むつもりは全然なかったので、帰国した時に、以前通った通訳ガイド養成所の先生に紹介していただいて、通訳ガイドの仕事を始めました。また、英検1級や通訳案内業の試験対策の授業を専門学校で担当するようになりました。
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そこからどのようにしてアカデミックの世界に入られたのでしょうか。
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30歳を超えると、そろそろ専任の職に就きたいな、と思うようになりました。専門学校で一緒に教えていたネイティブスピーカーの同僚たちが短大に就職していく様子を見て、彼らが専任教員になれるのであれば、自分もなれるのでは?と思ったのですが安易ですよね。聖母女学院短期大学が新しく国際文化学科を設置するにあたって通訳の授業を担当できる非常勤を探しているということで、まずは非常勤からスタートしました。そこから専任の話がありましたが、研究業績がないので当然採用されませんでした。
それで研究会に入って勉強を始めました。平安女学院短期大学の先生方を中心とした京都英語教育研究会(KAELE)に通訳ガイド養成所時代の恩師の紹介で入れていただいて、興味を持ち始めていた可算・不可算に関することを『京都英語教育研究会論叢』に数回書かせていただきました。後に『ジーニアス英和辞典』編集委員をなさる原川博善先生や、第4版執筆者の吉岡誠次先生、6版から編集主幹を務める中邑光男先生がいらっしゃいました。そして、聖母女学院で再度求人があったので応募をしましたが、また落ちたんですね。ところが、一番手の方が断られた、ということで二番手だった私が運よく採用されました。
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02.-
抽象名詞の可算性の研究と辞書
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抽象名詞の可算性について研究を始められたことと、辞書への学問的興味は先生の中で関連していたのでしょうか。
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振り返ってみると、不定冠詞に興味を持ったきっかけは、同時通訳に憧れるきっかけと同じく、アポロの月面着陸のニュースかもしれません。アームストロング船長が月面に降り立った際のかの有名な一言 “That’s one small step for (a) man, one giant leap for mankind.” を同時通訳をしていた西山千さんが “for a man” の “a” を聞き落として「人類にとって小さい一歩だが」と訳し、誤訳だと言われました。しかし、その後1999年に月面着陸30周年記念イベントにて録音が改めて検証されたところ、“a” は発音されていないことがわかり、西山さんは誤訳をしたわけではないことが証明されました。アームストロング船長の意図としては、“a man” だったので、「ひとりの人間にとってはささやかな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍だ。」となります。
そして、英語を教えているうちに名詞の可算・不可算に興味を持つようになりました。野菜や食べ物の名詞から始まって、抽象名詞の可算性について考えるようになりました。しかし、辞書によって記述が違うので辞書を見てもわからない。ネイティブに尋ねても答えが違ってわからない。英和辞典の書き手はどうやって判断しているのか、と疑問ばかりでした。
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名詞の可算・不可算の取り扱いから辞書により興味を持たれるようになったのですね。
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1987年に Collins COBUILD English Language Dictionary が出版された時に、「なんなんだこの辞書は!」と衝撃を受けました。ショッキングでしたね。定義文も例文も。そこからCOBUILD一辺倒です。ただ、 N-VAR (variable noun) というラベルを、基本的には不可算だけれども時に可算になる名詞に付けているのは卑怯な気がしますが(笑)。そして、抽象名詞の可算性について研究するにはコーパスしかないと思うに至りました。COBUILDDirect が出た時にはすぐに利用できるようにしました。当時はまだ電話回線で、使用中は家族に電話の使用を控えてもらっていました(笑)。現在の英語コーパス学会にも入りました。村田年先生が設立されたJACET英語辞書研究会は敷居が低くて、私でも発表しようと思えてありがたかったですね。
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バーミンガム大学に提出された博士論文と『英語抽象名詞の可算性の研究 英語教育の視点から』(2024)は先生のご研究の集大成ですよね。
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博論は最後に大変な苦労をして提出しました。可算か不可算か、というのは、認知言語学などで説明が試みられたりもしますが、最終的には単語に内在する可算性のようなものがあって、辞書での記述、ということを考えると大規模コーパスで、1語1語丁寧に調べていくしかないように思います。Michael Swan の Practical English Usage でも、1995年の時点では抽象名詞に修飾要素がある場合には「必ず不定冠詞を伴わなければならない」と言っています。が、2005年以降は「しばしば(often)不定冠詞を伴う」と説明が変わっています。コーパスデータの影響でしょうか。
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-1
Swan (1995: 139):
With certain uncountable nouns — especially nouns referring to human emotions and mental activity – we have to use a/an when we are limiting their meaning in some way.
Swan (2005: 149.4, 2016: 120.4):
With certain uncountable nouns — especially nouns referring to human emotions and mental activity — we often use a/an when we are limiting their meaning in some way.
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03.-
『ウィズダム英和辞典』の執筆について
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小寺先生が『ウィズダム英和辞典』の執筆に携わるようになった経緯を教えてください。
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私は日本の大学院で勉強をしていないので、英和辞典の名だたる編者の先生方はもちろんアカデミックの世界での人脈がまるでありませんでした。ところが、ある日突然井上永幸先生から電話がかかってきてお誘いいただきました。本当にびっくりしました。英和辞典をどうやって作成しているのかに興味がありましたのでお引き受けいたしました。どうして私にご連絡をくださったのかもわかりませんでしたが、英語コーパス学会が、研究会から学会になる1997年の4月の大会で「抽象名詞の修飾と不定冠詞の関連性についてーCOBUILDdirect のデータから」と題する研究発表をして、『英語コーパス研究』第5号に論文を掲載したので、こういったものを井上先生がご覧くださっていたのかな、と推測しますが…。
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どのように執筆の仕方を身につけられましたか。
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執筆のための講習会に参加をして、その後は井上先生が作られた執筆要項に従って執筆をしました。執筆の決まりごとに慣れるまではなかなか大変でしたが、頻度の低い単語を担当していましたので、1つの項目の記述量はそれほど多くありませんでした。一定のペースで締切を守って進めることはできました。どうしても [U] [C] の記述は気になるので、コーパスを検索したり、他の辞書を参考にしたりしましたが、表記が一致していない時に、みんなどうしているのだろうと思っていました。一度、講習会の席で [U] と [C] の両方を併記するのは辞めませんか?と暴言を吐いた(笑)記憶があります。
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04.-
辞書執筆者に必要な資質と英和辞典の今後
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辞書の執筆者に必要な資質とは、どのようなものであるとお考えですか。
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ことばに対する興味があることがまず挙げられると思います。そして、言語に対する感度を鋭く持つこと。通訳ガイドをしていた時に、二条城で若いお母さんがお子さんに “It will ruin your shoes.” と言っているのを聞いて、ruin という動詞に対して持っていた自分の感覚と大きなズレがあることに気がつきました。それまでは、ruin といえば「破壊する、破滅させる」というあまり日常的ではない日本語のイメージを持っていましたが、「そんなことをしたら靴がダメになっちゃうわよ。」ということですよね。コーパスで検索をすると ruin の目的語のトップに来るのは career や life で「台無しにする」という日本語の方がしっくりきます。また、清水寺で一通りの説明をして、後は自由行動ですので⚪︎⚪︎時にここに戻ってきてください、という場面で、「みなさん、この後は自由行動です。」と英語では何と言えばいいでしょうか。ツアー参加者の方に “You will be on your own.” と表現することができる、と教わった時には、「おお!」と思いました。こうした、日常で一般の人が求める情報を与えることができるようなことばに対する意識は大切かと思います。
次に、疑うことです。参照する辞書や文法書に書かれていることが本当にそうなのか疑ってかかること、もう一度自分で調べ直してみることができるかどうか。これまでのものをすべて疑ってかかって、コーパスをきちんと検索して、ということを真面目に真剣にやろうとする人でないといけないのかと思います。
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これからの学習英和辞典はどうなっていくとお考えですか。
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私は紙の辞書が好きですが、辞書はデジタルの時代になりますよね。そして、デジタルの辞書にも利点があると思います。まず、デジタルの方が検索性が高いです。辞書によってある表現を用例に載せるのか、成句なのか、見出し語なのか、収録の方針が異なりますが、デジタルデータで検索できれば調べ落とす心配がありません。そして、スペースの制約が紙ほどはないですから、写真や絵など視覚的に説明した方が早い単語についての説明がよりしやすくなることが挙げられると思います。たとえば、driveway という単語がそうですが、日本に同じものが存在しない場合、ことばを尽くすよりも視覚的に情報を提示した方が理解が早く、より正確だと思います。同じ単語でもアメリカ英語とイギリス英語で指すものが異なる場合には、Amazon US (Amazon.com) と Amazon UK (Amazon.co.uk) での検索結果を学生に見せることがありますが、やはり理解がしやすいですよね。
そして、私の研究テーマである抽象名詞の可算・不可算の記述においても、スペースの制約が緩くなれば、より丁寧な記述が可能になるのではないかと思います。私から見ると、[U] [C] をただ並記したり、 [複数] とだけ示すのは、どの辞書であれ、いい加減だな、と思うのです。それぞれ例文をつけるべきです。 [U] とするのであれば、その名詞に定冠詞や所有代名詞などの限定詞がまったくついていない例文を必ず提示する。それができないのならば、[U] をつけない。そして、[C] とするなら、不定冠詞を伴った用例と複数形の用例の両方を必ず示す。それができないのであれば、[C] をつけない、という選択をすべきだと思います。また、OALD や LDOCEなど、英語母語話者が作る辞書は、そもそも名詞の可算・不可算の記述にそこまで興味がないのではないかと感じます。彼らは自然にわかってしまうから、単数と複数、可算と不可算の区別をしない言語を母語にする人、異なる視点を持っている人の見方も取り入れられるようなチーム編成も大事なのではないでしょうか。
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05.-
インタビューを終えて