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赤野一郎

Ichiro AKANO
京都外国語大学名誉教授
  • 1949年

    大阪府生まれ

  • 1972年

    神戸市外国語大学外国語学部英米学科卒業

  • 1975年

    神戸市外国語大学大学院外国語学研究科英語学専攻 修士課程修了

  • 1975年

    大阪府立清水谷高等学校教諭

  • 1976年

    椙山女学園大学短期大学部専任講師

  • 1982年

    京都外国語大学英米語学科専任講師、 85年助教授、 91年教授

『ウィズダム英和辞典』編集主幹。
『英語基本動詞辞典』他、多数の英語辞書の編纂に携わる。

『ウィズダム英和辞典』編集主幹。
『英語基本動詞辞典』他、多数の英語辞書の編纂に携わる。

  • 1949

    大阪府生まれ

  • 1972

    神戸市外国語大学外国語学部英米学科卒業

  • 1975

    神戸市外国語大学大学院外国語学研究科英語学専攻 修士課程修了

  • 1975

    大阪府立清水谷高等学校教諭

  • 1976

    椙山女学園大学短期大学部専任講師

  • 1982

    京都外国語大学英米語学科専任講師、 85年助教授、 91年教授

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Interview

インタビュー

2021.05.19 実施

  • 01.-

    辞書編集者になるまで

    赤野先生が「英語」に興味を持たれたきっかけを教えてください。

    アンサーアイコン

    中学校で英語を習い始める前の春休みに、高校の英語教師をしていた母方の伯父から教科書を使って音読をするなど手ほどきを受け、英語を理解する楽しさを知り、学習の動機付けがされたように思います。また、振り返ってみると英語の先生に恵まれていました。地元の公立学校に通っていましたが、1年生の最初は、教科書を用いず、オーラルでの導入でした。2年生の時は、先生がとても熱心で、放課後にボランティアで英作文を教えてくれるような人でした。3年生の時には、アメリカでの生活が長かったと思われる先生で、最初の授業でいきなり英語で話されたのが衝撃でした。その先生が、その年に始まった英検の1級を取得して証書を誇らしげに見せてくれたことも覚えています。

    • -#1

      戦後の有名な開隆堂のJack and Bettyという教科書。2年次に文部省の学習指導要領が改定されWilliam Clarkの執筆による三省堂のThe Junior Crown English Courseに変わる。

    • -2

      「実用英語の普及・向上」を目的として1963年4月に財団法人 日本英語検定協会が設立され、同年8月、文部省後援のもとに第1回実用英語技能検定(1級・2級・3級)を全国47都市で実施、約38,000名が受験。第1回検定志願者数37,663名、合格者数15,259名。

      https://www.eiken.or.jp/association/history/

    英語はお好きでその時からずっと得意科目であった、ということでしょうか。

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    英語は得意だと思っていたのですが、府立清水谷高等学校進学たら、リーダーの授業で、第一課を全く読めなかったんです。あまりの衝撃で内容を今でも覚えています。英英辞典はなぜ良いのか、というような話でした。それで一生懸命辞書を引いて勉強しました。今思えば、辞書の引き方も拙かったように思いますが、赤い表紙の三省堂のクラウン』を使っていました。途中から、研究社の『英和中辞典』1966、初版)も使いました。3年次の英語の担当はベテランの先生で、Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED) (1942) 持たされその意味もよく分からずに使っていました。今でもこの時のISEDを持っています。伯父にも週1回程度、友人と一緒に英語を教えてもらっていました。 

    高校でも良い英語の先生と出会い、大学で英語を勉強する意志が固まったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    いえ、高校3年生の時には、英語教員になることは全く考えていませんでした。英語の成績は、定期考査ではよかったのですが、実力試験はそれに比べると劣る感じでした。本当の意味での実力がついていなかったのでしょうね。経営学部や経済学部に進学して、卒業後は一般企業に就職すると漠然とですが考えていました。私はちょうど戦後のベビーブーム世代で、進学率も上がってきたところでしたので倍率も高く、1年間浪人しています。その時に通ったYMCAの予備校で出会った英語の先生の指導で英語に対する考えが大きく変わりました。 

     

    毎日、訳読、作文を行い、添削を受ける。英文解釈ではその日に習った単語はその日のうちに覚える。1年間みっちりと英語を勉強したことで、模擬試験の得点が6割程度から満点を取れるまでになり、自信がつきました。それで進路の希望が変わりました。 

    そして神戸市外国語大学で小西友七先生に出会い、辞書の世界に足を踏み入れることになるのですね。

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    小西先生(当時51歳)には、1年次の「英文法」の授業で初めて教わりました。文法の授業ですが、『現代英語の文法と背景』(1964、研究社)は自分で読んでおきなさいという位置付けで小西先生ご自身が注釈をつけたリーディング用のテキストRichard Wrightの短編 “The Man Who Went to Chicago”が用いられ語の振る舞いを文法的に解説することが求められました。たとえば「“I walked the streets and looked into shop windows…” とあると、なぜ walked on the streetsではなくwalked the streetsなのか。」を尋ねられます。とにかく難しくて、図書館に籠ってこの授業の予習をしました。2年次は、小西先生はアメリカに行かれていて不在でした年生になって、小西ゼミに入り「英語学特殊講義」で提出したレポートが先生の目に留まって、存在が認められたように思います。名詞の可算・不可算の概念について書いたのですが、小西先生が編者のお一人であった『アンカー英和辞典』第学研1981の「編集方針の解説」にある図(p. 34)を目にした同級生たちが、これはお前が書いたレポートの内容が元になっている、と驚いたということもありました。卒業論文は、beginの諸相」という、動詞beginの補文構造とbegin to do/doingの意味分析を行いました 

     

    記憶が曖昧なところもありますが、大学院進学は選択肢として考えておらず、a卒業後は英語の教員になるつもりで大阪府採用試験を受けて合格していました。ある日、図書館に向かう途中に小西先生にばったりお会いした際、先生から話があると声をかけられて「大学院へ行く気はないのか。」と仰っていただき、進学を決めたように記憶しています 

    大学院では語法研究一筋だったのでしょうか。

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    そういうわけではありません。当時は、英語学の一大潮流は、変形文法で、英語学といえば生成文法でした。現在ではかなり抽象的な理論になっていますが、もっと具体的な英語の現象を扱うものでそれはとても面白いものでした。大沼雅彦先生(当時大阪市立大学助教授)のもと変形文法の論文を読み修士論文も格文法Case grammarの枠組みで動詞を分析しました。大沼先生による『現代英語教育』の「語法セミナー」の連載(1973はとても楽しみにしていて、肌身離さずして読んでいました。文学作品の英語学的読み方にも大変に影響を受けました小西先生の授業では、Quirk et al. A Grammar of Contemporary English (1972) を一人1章ずつ分担して発表をするものでした。 

     

    小西先生の辞書をお手伝いされるきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

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    修士課程を終える直前に先生から声をかけていただいて『英語基本動詞辞典』(1980 研究社)に携わることとなりました。卒論のあとがきに、語の単語の振る舞いを記述する「単語の文法」が必要である、というようなことを書いたので、小西先生の基本語彙辞典シリーズの構想に重なるものがあたのかと推測します。1975年から項目執筆に入りました。「まえがき」に本辞典が曲がりなりにも世に問うことができたのは、この人の努力と忍耐のお蔭であることを銘記して、執筆者ともにまず感謝しなければならない。特に、赤野君は計画の当初より全般にわたって原川君らとともに編者を助けられた。」とありますが、その通りで、執筆規定案、サンプル原稿を作成し、執筆は21語となっていますが、校閲・校正者として赤入れをした結果分量が倍になった稿や、ほぼ全面的に書き換えた原稿は少なくなく全精力を注ぎ込んだ辞典となりました。

    • -3

      『英語基本動詞辞典』(1980、研究社)のまえがきには「執筆者は主として20代の気鋭の人たちから成り、青春の情熱を傾けてこれに取り組まれた。が、出てきた原稿は若さの出すぎたものが多く、校閲および校正作業は難航を極めた。実に長期間にわたって、校閲者打って一丸となり、分量的にも内容的にも編者の苛酷な要求によく応えてくれた。」(p. xiv)とある。

  • 02.-

    コーパス研究と「英語コーパス学会」

    先生とコンピュータとの出会いについて教えてください。

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    京都外国語大学に移って年目1983年)、同僚の先生コンピュータを導入するので一緒に勉強しないかと誘われたのがきっかけです。表計算ソフトを見た時に、これは用例カードを電子化できると直感的に思い、そこからちょっとおかしいと思うくらい(笑)コンピュータにのめり込んでいきました。コンピュータが自宅にあるような時代ではなく、コンピュータ室掘建小屋と言ってもいいような建物の2階にコンピュー台あるだけの部屋ですがに、授業が終わると行き、日曜日行き、朝から晩までコンピュータをいじっていました。BASICの勉強もして、検索のためのプログラムを作ったりもしました。

    用例カードの収集は、いつからどのように行っていたのでしょうか。

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    卒論執筆のためにbeginの用例カードを作成したのが始まりです。どのくらい集めたのか枚数は見当がつきませんが、段ボール箱一杯にはありました。最初はノートに記録していましたが、それでは分類ができずに不便だったところ、梅棹忠夫(1969『知的生産の技術』を読んで、「京大型カード」と呼ばれるカードを採用することにしました。カードを一枚一枚タイプライターに挟んで打っていました。新婚の頃は(笑)、妻も手伝ってくれていました。 

     

    用例カードの電子化はどのように進めて行かれたのでしょうか。

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    まず、井上永幸先生との出会いがありました。井上先生は、京都外大の修士課程在籍時にすでに小西先生の『英語基本形容詞・副詞辞典』1989、研究社)の執筆をされていて、私に原稿を見て欲しいと研究室を訪ねてこられて初めてお会いしたのが1982年です大学院修了後は京都外大で非常勤として教えられていたので一緒にコンピュータ室で勉強をするようになりました。コンピュータは数値計算が基本にありますが、私たちは不定形の文字列を扱わなくてはならないので、用例カードに応用するには様々な不都合がありました管理工学研究所が桐」というソフトウェア1986年バージョン1を発売された時に、まさしく文系のためのデータ整理ソフトだと思い、それを用いて二人でカードの設計をしました。1987年9月号の『英語教育』に井上先生と赤野一郎・井上永幸(1987)「パソコンを使った語法カードの整理学」として、当時行っていたことをまとめて発表しています 

     

    コンピュータが語法研究には絶対に必要である、と考えており、また用例データが蓄積されれば辞書にもつながるとは思ってはいましたが、当時は積極的に辞書編纂に応用することは考えていませんでした。 

    京都外大で構築されたコーパスについて教えてください。

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    1990年にバーミンガム大学に客員研究員として行っていますが、年前の1988に大学の情報処理研究室の二代目の室長になりました。私学振興財団からいただいていた助成金で、ハードウェアとソフトウェアの整備をして、外大コーパス」(KUFSコーパスを作り始めました。嘱託研究員として、現在『ウィズダム』の編集委員である吉村由佳さんがいました。OCRでデータを読み取り、入力をする作業をマニュアル化し、吉村先生がアルバイト学生を指導して、コーパスを構築していきました6研究室内のどのパソコンからもコーパスにアクセスして検索ができるようにしたのは当時としては画期的なことであったと思います。 

     

    バーミンガムでは、コウビルド研究所に部屋をいただき、John SinclairをサポートしていたAntoinette RenoufGwyneth Fox氏に、コーパス構築の技術的なことを教えていただきました。バーミンガムにいる間も、パソコン通信のメールで、吉村さんに指示を出してプロジェクトを進めてもらっていました。 

     

    『英語基本名詞辞典』(2001、研究社)は、小西先生のもと同期の内田聖二先生(奈良女子大学名誉教授)が中心になって編集されたものですが私はコーパスを用いてコロケーションの記述を任されました 

    • -5

      『英語基本名詞辞典』(2001)の「まえがき」に「我々もKUFSコーパス(京都外国語大学で独自に構築された1千万語からなるコンピュータ・コーパス)をはじめ他のコーパスを活用し、おもに「自己資料」にその情報を反映させた。」(p.iii)や「さらに京都外大のKUFSコーパスなどを使って頻度の高いものを選び出し」(pp. x-xi)とある。

    • -6

      詳しくは以下を参照:赤野一郎・吉村由佳・藤本和子 (1991)「Corpus Linguisticsの現在の動向と問題点 (1) コーパスとその構築」Studies in English Linguistics & Literature 7,1-45.

    • -7

      https://www.bcu.ac.uk/english/staff/antoinette-renouf
    • -8

      『英語基本名詞辞典』「まえがき」に「コーパス関係資料は赤野、衣笠両君の献身的努力によるものである。」(p. xii)とある。

    先生は、日本の英語コーパス研究を牽引されてきましたが、英語コーパス学会について教えてください。

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    齊藤俊雄先生(大阪大学名誉教授)との出会いが始まりです。1992117日に開催された日本英語学会第10回全国大会でコーパスに関するワークショップが2つ開催されました。私はそのうちの1つ「現代英語の語法」で「コーパスからみた語法」という話をしました。もう1つは吉村先生が担当したCorpus Linguistics―その理論と応用」で、そこに齊藤先生がいらしていました。その場で私から先生に英語コーパス研究の場を作って欲しいと働きかけ翌年の1993年に「英語コーパス研究会」が創設されました。その下地として、近代英語協会19905月に開催したシンポジウム「近代英語研究とコンピュータ」(齊藤先生が司会)があります。その後、1997年に、「英語コーパス学会となり、第代会長(2008-2011年度)を務めました。 

     

  • 03.-

    『ウィズダム英和辞典』の編纂

    辞書編纂のご経験、そしてコーパス研究から、いよいよ『ウィズダム英和辞典』の編纂へとはどのように繋がっていくのでしょうか。

    アンサーアイコン

    井上先生から電話があって、コーパスを使った英和辞書を作りたいので一緒にやってくれないか、という依頼がありました。井上先生が私に声をかけられる前に、先生お一人で三省堂とやり取りをされ、井上先生に三省堂からオファーがありました10年以上の付き合いでお互い気心も知れているという理由で私に声をかけてくださったと思うのですが、最初はお断りしました。私は井上先生よりも10歳年上なので、気を遣われてのびのびと仕事ができないだろうと考えたことと、辞書はもう懲り懲りというのが正直なところでした(笑)英語基本辞典シリーズ3冊を終えて、燃え尽きた感がありました 

     

    その後、お受けすることにしましたがあくまで井上先生をサポートする立場で、という認識です。19975月の第1回編集会議から、ヶ月に一度、三省堂に集まって編集会議を行っていましたが、編集方針を決めるにあたっては、声を荒げないものの、論争と言ってもいいくらい(笑)議論を重ねに重ねました。そして、大変に詳細な執筆マニュアルを井上先生が作成し、コーパス講習会を開いて執筆指導をしました。編者の名前の並びが、井上永幸、赤野一郎の順であるのを、おかしいと指摘する人もいましたが、私は最初からそうすべきと考えていました。昔の伝統でいえば、赤野、井上の順になるのでしょうが、仕事の実情を反映すべきと思っています。辞書編集には大変な労力がかかるけれども、それがなかなか表に見えず、評価されにくいところがありますが、そういったことがなるべくないようにしたい。これは井上先生も強く感じていらっしゃることかと思います。 

     

    そして、三省堂も思い切った決断をしたものだと思います。編者としては当時2人とも若かったですし、そこまで名前が知られているわけではありませんでした。辞書には名前貸しの伝統がありますから、もっと著名な先生の名がなくてよかったのだろうかと。一度だけ、三省堂から、そのような話がありましたが却下しました(笑)。 

    赤野研究室なくして『ウィズダム』なし、という印象がありますが、いかがでしょうか。

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    赤野研究室ではなく、京都外大なくして、というのが正確なところだと思います井上先生に始まり、第4版で見ると、編集委員名のうち名、執筆・校閲者に8名京都外大の教員であったり、卒業生であったり、ゆかりのある人がいます

     

    『ウィズダム』の執筆者は、井上先生と私とで直接、色々な方に依頼をしました。現在編集委員を務めている有吉先生、田畑先生は、外大の同僚で理論言語学の専門家です声をかけたものの、辞書に興味を持ってもらえるのか、向いているのかは分かりませんでしたが、執筆者として優れた原稿を書かれて、それが認められて編集委員になりました 

     

    外大つながりではありませんが、英語コーパス学会の第7代会長石川慎一郎先生が「会長あいさつ(就任にあたって)」で「その後,思いがけないご縁があって,コーパスを使って本格的な英和辞書を作るというプロジェクトにお誘いをいただきその中でコーパスの使い方や言語データの分析の仕方を一から教えていただくことになりました。コーパスの面白さ無限の可能性を知ったのもこのプロジェクトです。声をかけてくださったのは赤野一郎先生でした。」と書かれているのを読んでとても光栄に思いました。 

    • -10

      京都外国語大学・京都外国語短期大学ホームページに、2018年11月28日「赤野一郎名誉教授が編集した『ウィズダム英和辞典 第4版』が刊行」のニュースが掲載されている。「筆頭編者である井上永幸先生(広島大学教授)と編集委員7名の内3名(有吉淳一郎、田畑圭介、吉村由佳)および執筆者・校閲者5名の内4名(神谷昌明、仁科恭徳、山本五郎、Craig Smith)が本学の卒業生か教員です。それ以外に初版から第三版で7名が関わりました。この辞書作りに多数の本学関係者が貢献しています。」

      https://www.kufs.ac.jp/news/detail.html?id=HpEONBhq

    これから『ウィズダム』はどうなっていくでしょうか。

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    紙の辞書の売り上げが思わしくない中、三省堂にどれだけの体力があるかと関係してくるとは思います。三省堂がよく許してくれたと思うのは、辞書というのは一般的に、版を重ねるごとにマイナーな改訂になるはずが、『ウィズダム』は初版から2版、2版から3版と改訂の幅がすごいのです。そういったことが今後できるかどうか。中高の現場の先生方が(紙の)辞書をどのように見て、位置付けるか、ということが大きく影響するように思います。教え子が、大阪の有名な中高一貫校にて『ウィズダム』を採用して指導をしていると聞き、とても嬉しく思いますが、そういう学校ばかりではないでしょう。後継者については、井上先生が広島大学でお弟子さんをしっかり育てているので期待ています。 

  • 04.-

    辞書編纂と辞書編集者

    先生の「言葉は表現者の心的態度の反映であること」という言葉に、先生の言語哲学が表れているように思いますが、辞書との関連について伺えますか。

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    もともと小説が、登場人物の心情を読み取るのが好きでした。学部生の時は、面白いと評判だったアメリカ文学の講読の授業を(もぐりで)聴講していたりしました。1つ1つの語の使い方に注意を払われる先生で、小説の読み方に影響を受けましたそして、小西先生のもとで電子コーパスのなかった時代、手作業で集めた数の限られた言語資料でも、言語感覚を研ぎ澄ませデータを深く読み込むことで、言語事実を的確に把握できることを学びましたそれをいかに辞書記述に反映させるかは英語基本辞典3冊に執筆・校閲者として携わる中で身につけたと思います。 

     

    一方、1989年に『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102、1989が発売されて、研究社の辞書が激しく批判されるまでは、辞書の記述にあまり疑いを持っていませんでした。ジーニアス英和辞典』(初版、1988)が人気を博したのは、言語事実に基づいた正確で適切な語法記述この出来事も大きな理由の1つかもしれません。そして、語法カードを使った言語資料の蓄積が、電子コーパスにつながり、英語を母語としない編者が語の振る舞いをしっかり観察記述できる、全面的にコーパスに基づいた英和辞典として『ウィズダム英和辞典』が誕生しました。 

    辞書編集者に必要な資質とは、どのようなものでしょうか。

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    辞書の執筆に向いているかどうかは、実際に原稿を書いてもらわないと分からない、というのが正直なところです。執筆者の原稿に赤を入れて本人に戻し、原稿の書き方を学んでもらうトライアルの期間があります。その期間内で、または原稿を書きながら、コーパスをよく見て、緻密な原稿を書くことができるようになるかどうか。良い論文を書ける能力と良い辞書の原稿を書ける能力は異なります。理論ができる人でも辞書の原稿は書けない、ということを『基本動詞辞典』の校閲時に実感しました。 

     

    もう少し一般化するならば、言語事実、特に、語法、語の振る舞いに興味があることが挙げられます。そして真面目な努力型、コツコツと物事を積み重ねることができる人、毎日机に向かって原稿が書ける人です。そうでないと辞書の仕事はできません。また、辞書編纂はチーム作業なので、校閲された原稿が戻ってきた時に、それを受け入れることのできる柔軟性があることも大切な資質かと思います。 

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インタビューを終えて

 赤野先生にお話を伺ってもっとも衝撃的であったのは、井上先生から『ウィズダム』のお話があった際に、一度、辞書は懲り懲りであるとお断りされていた、という話です。もっとも印象的であったのは、徹頭徹尾「『ウィズダム』は井上先生の辞書です。」という姿勢でいらしたことです。また、昔から文学もお好きと伺い、英語という言語に対する先生の洞察は、幅広い言語学の知識だけに起因するのではないことを確認し、非常に納得するところがありました。
 赤野先生には、先生の著作から学ぶことはあっても、直接授業でご指導いただいたことはありません。それにも関わらず、先生はこのインタヴューの依頼を大変快く受けてくださり、先生のお話を伺った3時間は、私の宝物となりました。先生は事前にスライドで資料をご用意くださり、詳細についても正確を期され、けれども語り口は大らかでお優しく。書き起こしのために録画を何度も見直す作業が本当に楽しいものでした。

参考資料
赤野一郎先生古希記念論文集編集委員会編 (2019)『言語分析のフロンティア』金星堂