00

赤須薫

Kaoru AKASU
東洋大学教授
  • 1979年

    東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業

  • 1981年

    カリフォルニア大学バークレイ校大学院言語学科修士課程修了

  • 1982年

    東京外国語大学大学院外国語学研究科ゲルマン系言語専攻(英語学)修士課程修了

  • 1982年

    高崎経済大学経済学部一般教育科助手、1985年講師、 1988年助教授

  • 1989年

    東洋大学文学部英米文学科専任講師、1994年助教授、2001年教授

『ライトハウス英和辞典』・『コンパスローズ英和辞典』編集主幹。
その他『研究社-ロングマン句動詞英和辞典』など多くの英和辞典の執筆、編集に携わる。

『ライトハウス英和辞典』・『コンパスローズ英和辞典』編集主幹。
その他『研究社-ロングマン句動詞英和辞典』など多くの英和辞典の執筆、編集に携わる。

  • 1979

    東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業

  • 1981

    カリフォルニア大学バークレイ校大学院言語学科修士課程修了

  • 1982

    東京外国語大学大学院外国語学研究科ゲルマン系言語専攻(英語学)修士課程修了

  • 1982

    高崎経済大学経済学部一般教育科助手、1985年講師、 1988年助教授

  • 1989

    東洋大学文学部英米文学科専任講師、1994年助教授、2001年教授

01

Interview

インタビュー

2023.03.23 実施

  • 01.-

    辞書編纂に携わるようになるまで

    赤須先生は、最初から英語がお好きだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    英語が好きだったのか、アメリカが好きだったのか、自分の中では区別がつかないんです。とにかくアメリカがすごく好きでー今の若い人とは感覚が異なるかと思いますがー外国といえばアメリカ、という時代で、TVを通して見るアメリカにただただ憧れていました。アメリカでは、すべてが素晴らしくて、何でも美味しくて、きれいな人がたくさんいて(笑)。日本は貧乏だったからね。アメリカには何でもいいものが転がっている、というイメージがありました。アメリカに行くなら当然英語ができなくてはいけないので、英語を勉強することは私にとって「当然」のことでした。

    英語の勉強を始めたのは、中学に入学してからでしょうか。

    アンサーアイコン

    そうです。ただ、小学生の時に、7歳年上の兄が、NHKテレビ英語会話を見ていて、そういう番組があるということは無意識に覚えたのかと思います。家にはテレビが1台しかなかったので、自分の見たい番組が見られず、その時はつまらないと思っていましたが、中学生になると、自分で英語会話を見始めました。初級は、月水金曜日の放送で、欠かさずに見ていました。野球部に入っていたので、練習などで番組を見られない時にはービデオなどない時代ですから録画はできませんーテレビに線をつないでカセットテープに録音をして、何度も聞き返せるようにしていました。

    学校での英語の授業よりもNHKテレビ英会話に夢中だったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    学校の授業であるとか、テレビ番組であるとか、そういう違いは自分の中にまるでなくて、英語は何でもどこからでも吸収したい、と思っていました。とにかく英語が好きで、三度の飯より英語を勉強している方が好き、英語を聞いている方が面白かったんです。そこに理由はなかったですね。ただ、英語が好きでした。

    英語が好きで勉強するからできる、という好循環だったわけですね。他の勉強もおできになったのでしょうね。

    アンサーアイコン

    勉強は基本的に好きでした。運動もできました。足も速かったし。楽しい子供時代を過ごしていましたね。

    英語だけでなく何でもおできになったのなら、進路において何を選ぶか、という悩みはありませんでしたか。

    アンサーアイコン

    それはありませんでした。テレビ英語会話の田崎清忠先生の大ファンだったんです。田崎先生のことが大好きで、田崎先生になることが夢でした。当時、質問があると、先生に手紙を書いていました。すると、田崎先生が必ずとても丁寧なお返事をくれるんです。ますます好きになっちゃって、「この先生のように俺はならねばならない。」から、英語を勉強する。田崎先生もアメリカに行っているから、俺もアメリカに行くしかない。ですから、勉強するのは「英語」しかありえない。講演会に行っても、本当に話が面白くて、憧れでした。先生の本も全て買って読みました。テレビの仕事もできたらいいな、と思っていました。

     

    東郷勝明先生の「ラジオ英語会話」も聞いていました。東郷先生の英語がまたこれが美しくて、痺れちゃって。惚れ惚れしながら聴いていました。NHKに足を向けては寝られないと思っていたくらいです。

    東京外国語大学に進学されたのは、英語を勉強するなら、やはり外大!ということだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    これは、実は父の大きな勘違いが発端となっています。自分で尋ねたのかどうか覚えていませんが、父が「(田崎先生は)東京外国語大学を出ているに違いない」と言ったんですね。東京外国語大学という大学があるのも知らなかったのだけれども、田崎先生になるためには(笑)その東京外国語大学に行くしかない、と刷り込まれてしまいました。後で調べて、田崎先生は東京教育大学のご出身で、当時は横浜国立大学で教えていらしたことを知るわけですが、一切の迷いなく、外語大の英米科に進学することになりました。

    英語の辞書との出会いについてはいかがでしょうか。

    アンサーアイコン

    小学校の時に、英語ではなくても、辞書を引く、ということが日常にあったと思います。人前では言ってはいけないようなことばを国語辞典で引いて友達とふざけていたら、女の子に言いつけられて先生にこっぴどく叱られた思い出があります。怒られたわけですが、辞書は楽しい、ということを知っていました。

     

    英語の辞書でいうと、中学校の時は、旺文社の『ジュニア英和辞典』を使っていました。当時は、研究社の辞書は、活字が肌に合わなくて、旺文社の辞書を好んで使っていました。高校では『シニア英和辞典』、そして『旺文社英和中辞典』(コンプリヘンシブ英和辞典)を愛用していました。世の高校生はみんな研究社の『新英和中辞典』を使っていましたが、「なんでみんなあれを使うんだろう。」って思っていました(笑)。研究社の辞書を使い始めたのは仕事を始めてからです。

    東京外国語大学での竹林先生や東先生との出会いについて教えてください。

    アンサーアイコン

    東先生には、1年生の英語、英語史などを教わりましたが、とにかく非常に淡々と授業をなさる先生でした。何かについて熱く語るようなことはない。ただ、ほんの少しでも何かずれることを言うと、「う〜ん、それはちょっと違うのではないでしょうか。」と言ってお話をされる。

     

    竹林先生は、ご所属が英米科ではなくいわゆる教養の先生だったので、英米科の授業をお持ちではなかったのですが、私が入学した年に「英語音声学」の授業が始まり、そこで教わりました。聞き取りのテストがあったのですが、「田舎モンのくせして耳がいいじゃねぇか。東京モンはだらしねぇな。」と、目をかけてくださって(笑)、音声学研究室に遊びに行くようになりました。そこで、竹林先生とはよく話をするようになりました。

    大学院に進学されたのは、当然の流れ、ということになるでしょうか。

    アンサーアイコン

    英語が好きで、英語に触れていれば幸せ、という人間でしたが、英語が好きということと、英語について語ることはレベルが違うので学部生の時は悩んでいたこともありました。が、大学院に行かないと田崎先生になれないので(笑)。

    アメリカ行きの夢はカリフォルニア大学バークレー校に留学されて叶えられたわけですね。

    アンサーアイコン

    サマースクール(東京外国語大学大学院生が中高生に外国語を教える講座)のアルバイトを大学4年生の時にしました。その時に出会った大学院の先輩が、英語もよくできて、アメリカにも詳しくて、外語にはこういう良い先輩がいると知って、ますますやる気が湧きました。その先輩が、翌年、ロータリー財団から奨学金をもらってミシガン大学に留学されたのに倣って、大学院の1年目に試験を受けて、2年目にバークレーに留学をしました。

     

    フィルモア先生がアカデミック・アドバイザーで、ジョージ・レイコフ、ロビン・レイコフといった錚々たるメンバーがいました。カリフォルニアでは、毎日いい天気だし、お金ももらえて、寮で三食出るし、何の心配もいらない最高の暮らしでした。英語ができるというだけで、お金がもらえて好きな勉強ができるなんて、と幸せを感じていました(笑)。

     

    代名詞の照応(anaphora)について研究していて、修士論文では、日本語の再帰代名詞「自分」を研究対象としていました。たとえば、「太郎と花子は自分を/自分たちを責めた。」と言う時に、単数の場合と複数の場合で意味するところが異なるのはなぜか、意味解釈の違いを規則として説明できるようにする、というようなことをしていました。

    修士課程を終えたら就職をする、といういわば一般的な流れで、教員になられたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    そうですね。うまく就職口が見つからないと、就職待ちで博士課程に進むような時代でした。課程博士というものも出なかったですから。私は、運よく高崎経済大学経済学部の一般教育科に、年齢が若かったので、助手の肩書きで就職しました。

     

    大学の教員になろうと思ったのは、外語大で竹林先生を見ていてー2日来て4コマ教えてあとは学校に来なくていいという生活を見ていたら、もうこれしかないと思うよね(笑)。90年代半ばくらいまではそんな時代でしたね。辞書の執筆に当てる時間もたくさんありました。

  • 02.-

    『ライトハウス英和辞典』・『コンパスローズ英和辞典』の編纂

    はじめての辞書のお仕事は『ユニオン英和辞典』2版の改訂かと思いますが、東先生からお声がかかったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    『ユニオン英和辞典』を2版から3版に改訂する時でした。大学院に入った年で、編集会議に呼ばれて行ったら、15名〜20名くらいでしょうか、偉い先生ばかりの中に学生は私一人でした。なんで俺がここにいるんだろう、と片隅で小さくなっていたと思います。声をかけてくださったのが、竹林先生だったのか東先生だったのかは記憶が定かではありません。両方からだったかもしれません。

    原稿の執筆はどのように学びましたか。

    アンサーアイコン

    編集会議で東先生が細かく例を出しながら説明してくださるのを何度も聞きながら覚えていったと思います。「辞書学」というような授業はありませんでしたから。原稿を出して、時々、アドバイスをいただいたような気がしますが、先生方は大変お忙しかったですから、システムとしてそうったものがあったわけではありません。

    執筆者から編集委員、そして編集主幹となられた時の背景について教えてください。

    アンサーアイコン

    『ライトハウス英和辞典』の第3版(1996)で、東先生が編集主幹に加わられたのと同時に編集委員になりました。そして、第4版(2002)で共編者になりました。編集委員になった時に、何か特別な説明があったわけではないのですが、編集主幹の先生方がご高齢になっていたので、次世代を託されたのだと解釈していました。編者になった時も、先生方から何か特別なお話があったわけではありませんでしたが、東先生の奥様に「東はもうそんなにできないので、辞書を頼みます」ということを言われたことはありました。東先生が倒れられてからは、東先生の方針を踏襲して、編集を行なっています。

    『コンパスローズ英和辞典』が、赤須先生のビジョンがより前面に出た最初の辞書、と言えるでしょうか。

    アンサーアイコン

    100%そうとは言えません。『コンパスローズ英和辞典』の編纂は、編集部の方々の協力も大きいからです。『ジーニアス』は語法、『ウィズダム』はコーパス、という明確な特徴があるので、それなら『コンパスローズ』としては「意味」で頑張ろうと考えました。

    執筆の協力者は赤須先生がお声がけをなさっているのでしょうか。執筆者の確保は難しくなっていると思うのですがどのようにされているのですか。

    アンサーアイコン

    研究会や学会に出席をして、参加者と話をして、ネットワークを作るのは大切だと思っています。『コンパスローズ』の「語義のイメージ」の執筆をお願いした三澤秀徳先生は、学部が外語大というつながりがありますが、コーパスの読書会で知り合ったのがー少し記憶が曖昧ですがーきっかけです。木内修先生(東洋大学)は、私が東洋に来た時はまだ院生でしたが、その後、同僚となりました。とても熱心な先生で、大学の紀要によく認知言語学関係の論文を出していらしたのでお願いをしました。

    まえがきなどを読むと「紙の辞書」の良さを最大限に引き出す、ということが感じられます。

    アンサーアイコン

    『ユニオン』の時から、研究社の辞書、我々の、岩崎研究会の辞書は、伝統的に「引きやすい」「見やすい」「分りやすい」というのあったので、そこはしっかり守って、踏襲してやらないといけない、というのは大原則でした。

    学習英和辞典は、記述的なアプローチを取っても規範性は取り除けないと思うのですが、そのあたりはどのようにお考えですか。

    アンサーアイコン

    常に問題になる点ですよね。規範的にならざるを得ない面はあるけれど、コーパスのおかげで実際の語の使用がわかるようになったので、記述が優先されるようになったと思います。どのように説明すればいいのか難しいですが、記述そのものが規範を兼ねている、と言えばいいでしょうか。「規範」をどう捉えるか、ですが、語の使用についてある判断をしても、それを使用者に「押し付ける」ということを最近はしないと思います。「正しい」というような価値判断を含む表現を用いず、「普通」「よく使う」などと記述する傾向にあると思います。

  • 03.-

    岩崎研究会と JACET英語辞書研究会

    赤須先生は、岩崎研究会の世話人や、JACET英語辞書研究会も初代代表の村田先生から2007年に引き継がれてから6年間代表を務めるなど、研究環境の提供にも大変なご尽力をされていると思います。表に出ない仕事がとても多い大変なお役目に使命感を持って当たられているように見えます。

    アンサーアイコン

    岩崎研究会については、東先生が、輪読が基本、一番大事、ということを書かれていて(『岩崎研究会Newsletter』第5号(1998年7月発行))、その通りだよなぁ、と思うので、それを引き継いでいます。例会を大事にしていかないと人が繋がっていかないと思います。

     

    東先生はとにかく例会を休まない。ああしろ、こうしろとは決して仰らないけれども、そこに無言の教えがあって、在り方で見せてくれる先生でした。その教えを見落としてはいけない気がします。

     

    JACET英語辞書研究会は、どうして私に話が来たのかは分からないんだけれども(笑)。村田先生はものすごく腰が低くて、いつの間にか取り込まれちゃうんだよね。お人柄かな。辞書研を立ち上げられた村田先生の功績は本当にとても大きいです。私としては、引き継いで潰さないように一生懸命やったつもりです。 

     

    辞書研の代表を務めていた時期は、世界が広がったと感じる時代でした。90年代後半から、特にヨーロッパと行き来が盛んなって、辞書学が楽しくなったよね。Howard Jackson 先生も来てくれたし、Michael Rundell も何度も来てくれた。辞書ではないけれども、Adam Kilgarriff  も話をしてくれた。語彙の権威、Paul Nation の話も聞けた。直接人に会って話を聞けるのは、本を読むのとはまた違った良さがあります。

    先生は、学部生の時に岩崎研究会に入会されたのですよね。

    アンサーアイコン

    東先生と竹林先生がよく研究会の話をされていました。それで、3年の終わりに詳しく教えていただいて、4年の4月から岩研の例会(学校文法、新言語学(生成文法)、辞書)に出席するようになりました。わたしは運が良かったと思います。小島先生、竹林先生、中尾先生、東先生、みなさんまだお若かった、40代だったと思います。そういった先生たちに囲まれて辞書の勉強ができたことは、本当に幸運で、わたしに大きな影響を与えたと思います。

     

    当時は、辞書「学」という言葉がなかったけれども、辞書についての話はたくさんたくさん聞きました。岩研の帰りに毎回飲み会をしていて、その飲み会の席でも辞書の話をたくさんしました。門前の小僧、という感じで色々と吸収していたように思います。研究会の夏の旅行でも、夜遅くまで色々な話が出ました。小島先生も本当に辞書の話がお好きで、早稲田まで行かなくても先生の講義がタダで聞けるというのは幸運でした。

    小島先生のお話で印象に残っていることはありますか。

    アンサーアイコン

    たくさんありますが、辞書には寿命がある、と先生は仰っていました。辞書は改訂をしないとダメになっちゃうんだ、と。先生方がいなくなってしまった今、続ける人がいなくなると辞書が死んじゃうよな、という考えはあります。

  • 04.-

    辞書執筆者・編集者に必要な資質

    辞書執筆者に必要な資質とは、どのようなものであるとお考えですか。

    アンサーアイコン

    基本は、英語が好きでないとできない、ということ。そして、とにかく肝心なことは、コツコツとできる性質。辞書の執筆は、日曜日だけ10時間やって後はやらない、というわけにはいかないので。紙の辞書の話ですが、ちまちましたことをちんたらちんたらやっても嫌気がささない性格(笑)。飽きっぽい人は続かないでしょう。判断力なども必要なのでしょうが、机に向かってじーっとしていられること、そうでないと無理だと思います。

    編者として、辞書全体を見渡す際に必要なことは何でしょうか。

    アンサーアイコン

    誰が使うのかーを常に意識することだと思います。書く方から見るのではなく、読む方から見る意識で、原稿を書かないといけません。

    先生ご自身が、40年以上にわたり、辞書編纂のお仕事を続けてこられたのはなぜだとお考えですか。

    アンサーアイコン

    シンプルに「英語が好き」ということに尽きると思います。辞書は、英語が好きという人が増えるための道具ですから。自分も辞書を見ながら英語を勉強してきました。わからないことは辞書に聞いて。わからないことだけではなくて、辞書を読んでいると勉強になって、色んな知識が入ってくる。世界にはこんな国がある、こんなに言葉がある。単語の向こうにまた単語がある。普通の人はめんどくさいと思って辞めてしまうのかもしれないけれど、次は?次は?といくらでもことばの追求ができるのが辞書の面白いところだと思います。

     

    そして、英語が好き、ということと、辞書が結びついたのは、外語大で東先生、竹林先生との出会いがあり、さらに岩研を通して、中尾先生、小島先生とも繋がれたということが大きいですね。

  • 05.-

    辞書学研究とこれからの辞書

    赤須先生は、論文等で日本の英語辞書編纂について広く紹介されていらっしゃいますが、ご研究の関心の変遷についてお聞かせください。

    アンサーアイコン

    我々が学生の頃は、生成文法が非常にパワフルで、生成文法をやらないと人間じゃない、というくらいの勢いでした。基本的にアメリカに目が向いていて、アメリカでは文法研究が中心で、言語研究はチョムスキーに牛耳られていたと言ってもいいでしょう。松田徳一郎先生に生成文法を教わっていたおかげで、アメリカに行っても困らなかったわけですけれども。

     

    辞書のプラクティスは行っていたけれども、「辞書学」を意識するのは、90年代に入ってからです。コウビルドが出版されて、コーパスが出てきて。世の中には辞書学というものがある、と知ります。語彙、ことばに注目が集まるようになって、語彙研究が充実してきました。それで、生成文法なんてやってる場合じゃない(笑)とようやく気づきました。1997年には、ハートマン博士とトム・マッカーサーが来日して岩研でも話をしてくれるなど、日本においても辞書学という学問がより認知され、盛んになっていったように思います。

    日本における辞書学の発展を牽引してきた英和辞典ですが、今後、「紙の辞書」として残ると思いますか。

    アンサーアイコン

    希望としては、残って欲しいですが、デジタルの波は想像以上で、難しいだろうな、というのが冷静な見方です。私たちは紙の辞書で育ちましたが、現在は過渡期で、紙の辞書を知らない人たちが普通の存在になり、その人たちがメインになった時には、「辞書」と聞いて紙を思い浮かべなくなるでしょう。それは、新しい時代が来た、ってことでしょう。それが良いか悪いかは別にして。AIが相当優秀になりそうな時代ですからね。

    辞書は、時間が経つと、歴史的な資料になりますよね。英語だけではなく、日本語の歴史や、編纂された時代を読み解くこともできる。辞書の形はともかく、コンテンツが改訂されていけば、記録は残るでしょうけれども、果たして万人にアクセス可能な形で記録が残るかというとどうでしょうか。

    アンサーアイコン

    心配だよね。デジタルの形でも改訂が続けばログはどこかに残るでしょうけれども、表面的には消えてしまう。紙であれば、第5版、第6版というように形となって残るけれども、常に現在進行形しかられなくなってしまいますよね。それでいいのかなぁ、と思うところはあります。

02

06.-

インタビューを終えて

赤須先生には岩崎研究会をはじめ、ありとあらゆるところでお世話になってきたにもかかわらず、先生の個人的なお話はあまり伺ったことがありませんでした。伝統的に、東京外国語大学、岩崎研究会が中心的な役割を果たしてきた研究社の学習英和辞典の看板を背負うというのは重責に他ならないと思いますが、赤須先生はいつもとてもリラックスしている印象です。どのようなお考えを持っていらっしゃるのか、先生の心の在り方とはどのようなものなのか、初めてお話を聞くことができました。偉大な先生方の教えと先生方への敬愛の念、英語という言語に対する好き・楽しいという純粋な気持ち、先生ご自身の聡明さのバランスがとてもよいのかな、と思いました。

昭和のまさに VIVAアメリカだった頃のお話は、大笑いしながら伺いまして、本当に楽しい時間でした。赤須先生とお話しされたことがある方には、赤須節が聞こえるようにしたかったのですが、聞こえるでしょうか…。