00

中邑光男

Mitsuo NAKAMURA
関西大学教授
  • 1981年

    神戸市外国語大学外国語学部英米学科卒業

  • 1984年

    神戸市外国語大学大学院外国語学研究科修士課程英語学専攻修了

  • 1985年

    平安女学院短期大学英文科専任講師、1990年助教授

  • 1989年

    米国 Rensselaer Polytechnic Institute, The Department of Communication and Rhetoric 修士課程修了

  • 2001年

    平安女学院大学現代文化学部助教授、2004年教授

  • 2005年

    関西大学商学部教授

『アクシスジーニアス英和辞典』編集主幹。
『ジーニアス英和辞典』編集委員、第6版から編集主幹。

『アクシスジーニアス英和辞典』編集主幹。
『ジーニアス英和辞典』編集委員、第6版から編集主幹。

  • 1981

    神戸市外国語大学外国語学部英米学科卒業

  • 1984

    神戸市外国語大学大学院外国語学研究科修士課程英語学専攻修了

  • 1985

    平安女学院短期大学英文科専任講師、1990年助教授

  • 1989

    米国 Rensselaer Polytechnic Institute, The Department of Communication and Rhetoric 修士課程修了

  • 2001

    平安女学院大学現代文化学部助教授、2004年教授

  • 2005

    関西大学商学部教授

01

Interview

インタビュー

2023.11.14 実施

  • 01.-

    辞書編纂に携わるようになるまで

    英語を一生懸命勉強しよう、と思ったきっかけはありますか。

    アンサーアイコン

    英語を勉強し始めたのは中学校に入学してからで、他の多くの生徒と何ら変わりはありませんでしたが、アメリカに対する強い憧れがありました。アポロ11号が初めて月面着陸に成功したり、その時の同時通訳者が脚光を浴びたり、外国に対する憧れの代表がアメリカ−そういう時代でした。したがって、英語に興味を持ち、英語の向こう側には素晴らしい世界が広がっているんだと思うようになり、それを疑うことはなかったです。 

    中学校入学前は英語に興味を持つことはなかったのですか。

    アンサーアイコン

    小学生の時にグループサウンズが流行っていて、The Beatles のようにグループ名に ‘The’ が付くものが多かったことを疑問に思って母に質問すると「かっこいいから付けてるんじゃない?」などと答えが返ってきましたが(笑)、英語に対する興味は強くありました。ですので、中学校に入って、やっと英語が勉強できる!という喜びを強く感じました。 

    英語の勉強は順調に進んだのでしょうか。

    アンサーアイコン

    中学校では、当然文法の勉強をし、定期試験があるわけですが、つまずいてしまったんですね。中学校1年生の後半に、英語の先生に「How と What で始まる感嘆文の作り方の違いがわかるか?」と聞かれて、私は全然わからなかったんです。それで「わかりません。」と答えたのですが、それが非常に悔しくて、2年生になる時に、心を入れ替えて勉強しようと思いました。

      

    勉強をすると決めても、カセットテープを聴きながら音読をする、ということくらいしか思いつかなかったので、教科書を繰り返し音読しました。1つのチャプターを少なくとも100回、200回程度は音読したと思います。そうすると、試験の問題なんて簡単に解けるわけです。それで2年生になってからは、ほとんどの試験で100点満点を取り続けました。自分は英語ができる、できなくてはいけない、と意識が変わっていきました。 

     

    高校生になると、文法に興味が出てきましたが、文法の教科書を読んだだけではどうも力がついた気がしなかったので、文法書にある用例をすべて覚えてしまおうと考えました。文法項目に対する説明文を見たらその用例が口をついて出るようになるまで徹底的にやりました。誰に教わったわけでもないのですが、説明を2、3行見たら目を瞑って用例を口に出す。文法の説明の仕方は色々とあるけれども、辿り着くところが用例なわけですから、その用例を書ける、話せるようにすることで理解が深まったと思います。後に振り返ってみても非常に効果的な学習方法だったな、と思います。 

    神戸市外国語大学に進学を決めたのはどういった理由からだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    家庭の事情で、進学をするなら神戸外大以外に選択肢がありませんでした。驚くほど学費が安かったものですから。神戸市民はさらに安く済ました。高校の先生は国立大学に進学する生徒数を増やしたいので、大阪外大に行くことを勧められましたが、先生には、下宿をするお金も通学するお金もないので勘弁してください、神戸外大一本で行く、ダメなら就職をする、と伝えていました。家族も進学することにあまりいい顔はしていませんでしたが、学費はすべて奨学金で支払う約束で進学しました。神戸外大に合格していなかったら、今の仕事には就いていなかったと思います。 

     

    神戸外大に入学する前から、小西友七先生のお名前は辞書を通じて知っていました。辞書といえば,高校時代、最初は学校指定の『クラウン英和辞典』を使っていました。クラウンは多くの用例から学習者が自発的に様々なことを読み取るという辞書ですが、私は学びきれなかったんですね。用例の意味はわかる。書いてあることはわかる。でも用例のポイントがわからなかったんです。覚えるにしても数が多すぎる。帰納的アプローチは学習者の英語力に依るところが大きいです。高校年生の時だったと思うのですが、図書館で友達が研究社の『研究社新英和中辞典』を使っていて、クラウンとはまったく違うわけです。名詞の可算・不可算、動詞の文型など、情報を明示的に掲載している。私は、その日のうちに『新英和中辞典』を購入し,使い始めました。それ以来、私は辞書、特に英和辞典に興味を持つようになりました。そして、『アンカー英和辞典』の編纂に関わっておられた小西先生のお名前を知りました。 

    では、大学に入る前から小西友七先生のゼミで勉強したいとお考えだったのですか。

    アンサーアイコン

    英語学のゼミに入るのであれば、小西先生のゼミがいいな、と考えていましたし、実際にそうしました。一方、小西先生は、英語を読む、ということにおいてはものすごくお出来になる先生だ、ということは学生の私にもわかったのですが、先生ご自身もお認めになっていたように、話すこと・聞くことに関してはあまり得意ではなかった。当時の風潮として、英会話ができる、というのは大きな一つの価値でした。ですので、小西先生の一つの側面を非常に尊敬するも、その他の面についてはどう考えていいのかわからないところもありました。 

     

    小西ゼミでは、英語の読み方を徹底して学びました。先生は、ただ和訳をするのではなく、文脈を読み込んだり、語法について語ってくださったりしました。学生の自主性に任せられていた部分も多く、それは私には合っていました。たくさんの本を読みましたし、厳しい先輩方が多くいらしたので後にジーニアスに携わられる方々でしたが色々と教えていただいたり、時に叱られたりしながら、なんとか勉強についていきました。 

    大学院に進学を決めたのはどのような理由でしたでしょうか。

    アンサーアイコン

    英語で生計を立てていきたい。そう思っていましたが、このままではそれはできない、と思って進学を決めました。英語で生きていこう、と考えたのは高校生の時です。3年ほど前に、高校の同窓会に初めて出席して、色々なことを思い出しました。教育実習生が来ると実習生に質問をして、その力量を見極める(笑)とか。英語の先生にも質問をして、終了のチャイムが鳴ると「授業が終わったので、今日はこのくらいにさせていただきます。」というような生意気なことを言っていたらしいです。それを聞いて「中邑は英語で生きていきたいんだな。」と強く思った、と複数の友達から言われました。そういう強い思い込みがあったので、そこに一つの決着をつけないといけないと思い、大学院に進学しました。 

    大学院ではどのようなご研究をされたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    大学院では、小西先生の英語学のゼミに入ったのですが、私はここからが少しひねくれています。私は、英語を読んで理解する、ということだけでは満足ができず、英語の「十種競技の選手」になりたかったんです。読む書く話す聞く、満遍なくなんでもできる人になりたい。そういう先生の元で勉強をしたい、という気持ちがありました。私は、高校、大学と英作文を添削されたことがなかったんです。いつも、「はい、よし。」と言われるだけでした。それはとても簡単なことで、間違いようのない英語を書いておけばいいんです。まず日本語を簡単な日本語に変換して、自分で自信を持って書ける英語にすればいいだけなので、間違えることはないんです。ですが、それで力がついているのかとても不安だったんです。 

     

    外国語大学の大学院なので、「英作文」という授業があり、ビジネス英語を専門とされていた平田重行先生の指導を受けていました。1年生の5月頃だったと思いますが、私が書いたエッセイを先生に見ていただく回がありました。その日先生は「大阪商工会議所で話をしなくてはいけないから、大急ぎで添削をします。その結果を見て、後は自習をしておいてください。」とおっしゃって出かけられました。その時、私は、自分の書いた英語に赤字を入れられるところを初めて見たんです。ものすごく嬉しかったです。どうみても先生の書いた英語の方が素晴らしいことはわかる。こんな先生に出会えることはもうないだろう、と思いました。 

     

    次に、自分のエッセイの中に、Time の記事を一部しのばせて提出したんですね。先生はなんとおっしゃるだろうか、と。先生が赤を入れられたので、「先生、これ、Time から引用したんです。」と種明かしをすると、「最近の Time の記者の英語はちょっと間違いがありますね。」と普通に言われたんです。そして、添削した先生の英語の方が素晴らしかった。その後、私はまた先生を試そうとして、英語のペーパーバックを読んで気になった表現をメモしていたカードからいくつかの表現を取って、エッセイの中に散りばめてみました。また種明かしをすると、先生が引用した部分の英語について「では、この英語の話し手の性別、年齢、教育レベル、そういったものについて説明しなさい。」とおっしゃいました。説明できないわけです。私は、ネイティヴが書いた英語はネイティヴが書いた英語で素晴らしいと思い込んでいるので。「中邑君、わかるだろう。日本語でも同じでそういったことが問題になってくるんだよ。それをちゃんと理解して書かなければ却って危ないんだよ。」この先生の言葉を聞いて、平田先生につこうと決心しました。 

     

    そうすると小西先生に指導教官を変えたい、と話に行く必要があります。平田先生の許可をいただいてから小西先生にお願いに行くのでは失礼だと思い、平田先生にお話をする前に小西先生のところへ行って、平田先生に指導を受けたい、とお話をしました。小西先生は窓の外をご覧になりながら、「中邑君がいなくなると寂しくなるなぁ。」そして、ビジネス英語であれば「英語を書く」ということが主になってくるので「ネイティヴよりもいい英語を書けるようにがんばりなさい。」と送り出してくださいました。それまで、ネイティヴよりもいい英語を書く、という発想が私にはなかったので、これには震えました。そしてそのためにはきちんと読む、という道筋を小西先生が教えてくださっていました。 

     

    その後、ビジネス英語を勉強して、論文を書いて、最初の勤務先でも、その後の勤務先でもビジネス英語を教えて、辞書とは関係のない20年を過ごしました。 

    では、20年後に『ジーニアス和英辞典』で初めて辞書に携わることになったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    そうです。『ジーニアス和英辞典』については、大修館書店の編集部からいきなり電話がありました。私が42か43歳くらいの時です。つまり、大学院で小西先生のご指導から離れて20年後です。なぜ私に声がかかったのか、ということを当時はあまり深く考えなかったのですが、大修館の雑誌『英語教育』で「教師のためのEメールライティング入門」という連載を書いていたんですね。ビジネス英語のライティングの知識は、一般のライティングを教える教員にとっても非常に役に立つのですが、「ビジネス英語」というとみなさん、関係がないと思ってしまうので「教師のための」と銘打って、ビジネスのメールを書く際の手法や着眼点を伝えるといいのではないかと考えました。1年分の原稿を用意して、何の伝手もなかったのですが、編集部に持ち込んだ企画でした。それが実際に連載という形を取ったので、その関係でのお誘いなのかとぼんやりとは思っていましたが、本当にところはわかりませんでした 

     

    後になって、私を推薦してくれたのは小西先生だと知りました。今から5年くらい前です。「中邑君がいるから、電話しなさい。」とおっしゃったと。実は、大学院の1年目、先生の元を離れようかどうしようか考えていた時に、辞書をやらないか、と声をかけていただいたことがありました。研究社の『英語基本形容詞・副詞辞典』です。一度原稿を書いてみないか、と言われて、編集会議に出席しました。小西ゼミにもっとも力があったと言いますか、お弟子さんがたくさんいらした時期で、わたしは会議室の入り口に一番近いとこに座わっていました。小西先生のご指導は、ピア・エディティングの形式で、私が書いた原稿に先輩が赤を入れてくれるのですが、赤が入った原稿を見て、私はこの仕事は自分の手には負えない、と思いました。 

     

    その理由の一つとして、私は用例カードを作ってはいましたが、基本的な単語はカードにしないので資料がなかったことがあります。少し変わったふるまいをしている語や知らない語についてメモを取っても、たとえば、beautiful というような基本語のカードを作ることはない。もちろん、後になって基本語のデータの重要性がわかるのですが。担当になった語を調べると言ってもコーパスなどありませんから、自分の目で、読んで、用例を探すわけです。しかしペーパーバックを1冊読んでも、該当の語がほとんど出てこない、ということもあります。その頃は、Time を一番熱心に読んでいたので、Timeの用例を入れると、「用例が Time に偏っている。」と先輩に指摘を受ける。そう指摘を受けても、私は Time を読むような学習段階に自分はいると認識していたので、これでは辞書を作りながら英語の勉強はできない、自分には向かない、と思いました。また、これだけ先輩がいるなか、一段ずつコツコツ上がっていって、自分のしたい仕事ができるようになるまで継続して取り組めるのだろうかという不安があったので、小西先生にお断りをしました。それで、小西先生とはご縁がなくなってしまったのですが、自業自得だと思っていました。それが20年後にお声をかけていただいた。 

    用例カードはいつから、どのようなきっかけで作っていらっしゃるのですか。

    アンサーアイコン

    カードは、京大式カードの影響です。最初は手書きで作っていましたが、途中からはコピーを貼り付けていました。同時通訳の神様と言われた國弘正雄先生は、私がとても影響を受けた方の一人ですが、カードで用例を集めて、実例に基づいた英語しか話さない、とおしゃったことを國弘先生を知る同僚から聞きました。その影響を受け、私は用例カードを1万枚以上は作ったと思います。ただ、カードは検索が難しい。特に、1つの用例にポイントが2つ以上あるとより難しくなる。 

     

    カード作りは一種のロマンなんですよ。ある作家の英語の癖などが恣意的でしかないのですが見えてきます。一度、カードの用例をもとに論文を書いたことがありますが、システマティックではないけれども、システマティックに書くよりもきっと楽しく書けました。その時に意識したのが山田和男さんです。『クラウン和英辞典』(1961)を作った方ですが、30万の用例―実はもっと多かったらしいですが―をもとに辞書を書いた。用例カード作りはロマンなんです。はコーパスにはロマンは感じません。 

    大修館からの依頼はすぐにお引き受けになったのですか。

    アンサーアイコン

    小西先生のご推薦だったことは後で知るわけですが、大修館が声をかけてくれたのなら、お引き受けしたい、と思いました。もう一つ辞書に関わりたいと思った理由は、一般的な英語力がないとビジネス英語まで到達することができないからです。ビジネス英語を教えれば教えるほど、一般的な英語力を上げないとビジネス英語の持つ本来の力を伝えることができないことを痛感する。当時、ビジネス英語に関する論文を書いていましたが、誰も読まないんです。本当に誰も読まない。これでは英語教育の世界に変化を起こすことはできない。変化といっても大それたことを考えていたわけではなく、自分なりの変化なのですが、やはり生きた証は欲しいと思いましたから。 

     

    その時に勤務していた平安女学院大学では、交流のある中学校・高校で英語教育について講演をすることが多く、私は熱心に取り組みました。1ヶ月平均2回くらい、合計77箇所で講演を行いました。場を盛り上げるのは得意なので、楽しかった。ただし、また来てください、と言ってもらえても、実際に2回目があることは少ない。カンフル剤にはなれるんですが、継続性がない。なかなか現場は変わらない。

     

    小さな大学で限られた数の学生を相手にがんばっていても、講演をしても、英語教育全体に小さな変化すら起こすことはできない。影響力が一番ある教科書の仕事がしたい、と思っていました。そして、センター入試の問題作成でご一緒した小林ひろみ先生に声をかけていただいて東京書籍の教科書にも携わるようになりました。センター入試の問題作成の会議で、コーパスを見ながら、冠詞や前置詞の修正を生意気にもネイティヴに提案したり、よく発言をしていたら、「中邑さんのような人はもっと発信をしていかなくてはダメ」とおっしゃってくださった。 

     

    ちょうど『ジーニアス和英辞典』の話があった頃で、教科書の仕事で東京に行く際にジェフ・シェイファー先生(静岡大学)と一緒に大修館の編集部に挨拶に行きました。『ジーニアス和英辞典』の編集はすでに進行中でしたので、その場で編集部からゲラを渡されて、その場で赤を入れるように言われました。赤入れをした原稿を見た編集部の方の反応は「うーん。」といった感じでした(笑)。なぜかというと、用例にリアリティがないことが気になって―ちょうどコウビルドの実例が話題になっていた頃でした―無味乾燥だと思った用例を書き換えると、語数が増えて、紙の辞書のスペースの制約を超えてしまう。辞書ではやってはいけないことを、私は信念を持ってった、ということになりますが、受け入れてもらえました。 

  • 02.-

    『ジーニアス英和辞典』の執筆と編纂

    先生は、『ジーニアス英和辞典』の第4版から、編集委員として執筆・編集に携わられていますが、先生ご自身はどのように執筆の仕方を修得されましたか。

    アンサーアイコン

    辞書の執筆の仕方は、もちろん執筆要項記されていましたが、大修館の編集部から学びました。大修館の編集部はとても厳しいです。私は『ジーニアス』の記号の使い方すら身体に染み付いていなかったので、時々間違えてしまうと、記号の種類くらいきちんと覚えてもらわないと困る。ここに書いてあることの意味がわかりにくいから書き直して欲しい。同僚や学会よりも、編集部から学びました。原稿へのダメ出しが、まぁ素晴らしい。必死で喰らいついていった20年間でした。編集部の方々とは、今ではプライベートでも親しくしていただいて、一緒に飲んだり、子どもや孫の写真を共有したり、相談したり、励まし合ったりしていますが、をここまで育ててくれたことについて、感謝してもしきれません。 

     

    辞書編纂には、これといった王道がありません。編纂については学習可能なはずなのに、そのプログラムをどこで学べばいいかわからない。神戸外大でも小西先生は辞書学は教えていらっしゃらなかったので、辞書学を学ぶことはできませんでした。先輩方も、トライアル・アンド・エラーを重ねながら、そこにたどり着いたまったくの職人です。赤が入ったゲラをじーっと見て、きっとこれはこういう観点で直されたのだろう、とメモを取り、お会いした時にそれで正しいのかを確認する。そして、自分の読みの精度を上げていく。私は後からチームに加わったので、先輩方の 1.2倍働こう、そうしないと辞書の仕事に携わり続けることはできないだろう、と思いました。2倍働いたら死んじゃいますが、1.2 倍でも結構キツいんです。もう辞めよう、と思ってから1時間がんばる。それを続けていきました。 

    G4の改訂で、先生が用例全体の取りまとめをご担当されることになったのはどうしてですか。

    アンサーアイコン

    最近の辞書編纂は、『ジーニアス英和辞典』に限らず分業化が進んでいます。すべてのページに目を通したり、すべての項目に関わったりするというのは編集主幹だけと言っていいかと思います。G4の第1回目の編集会議で、これまでもチェックを重ねてきているとは思うけれども、すべての用例に再度ネイティヴ・チェックをかけた方がいいのではないか、ということを発言しました。用例が、文学的なものに偏っている、品詞を見せたいためだけの無味乾燥なものになっているなど、気になる点を指摘したところ、編集部も、南出康世先生も、首を縦に振っていました。そして、第2回の編集会議で、では担当は中邑さん、と(笑)。ですので、私はG4の用例はすべて見ました。あれはキツかったです。かなりの数のネイティヴの人にチームに入っていただき、その人たちにメールで用例を振り分けて見てもらいました。そして、原稿の戻り具合に差が出たら調整をし、日本語を解さないネイティヴも多かったので、語義と用例の不一致があった場合にはそこも修正をし、なかなかに大変な作業でした。 

     

    G4では編集委員になりましたが、私の主な担当は用例でした。まだ紙のゲラの時代でしたので、語義や語法情報も目に入りますので、ちょっとおかしいな、と思うところにはクエスチョンマークを付けることもありましたが、用例に不備があったらそれは私の責任なので、とにかく徹底して用例を見ました。この作業を通して、当たり前のことかもしれませんが、改めてネイティヴの人でも意見が様々に異なることを痛感しました。 

    • -

    先生はG4の改訂に際してコーパスを作成されていますよね。

    アンサーアイコン

    私が最初に作ったコーパスは、ビジネス英語の model letters を集めたものでした。学生アルバイトを使って、約100万語のコーパスを作りました。それで研究発表をしたりしていました。今では100万語サイズではコーパスとして話になりませんが、当時はある程度は意味を持っていたとは思います。 

     

    コーパスが注目を浴びていた頃でしたので、代表性を担保したコーパスを作ることはできないけれども、高頻度語を執筆する際の「サポート」としてのコーパスであれば作れるだろう、ということで始めました。オンラインの英字新聞、雑誌、映画のシナリオ、インタヴューの書き起こし、小説など色々なものを収集して作りました。来る日も来る日もデータを集めて嫌になりました(笑)。英語漬けの洗礼を受けました。龍谷大学の大学院生にお手伝いいただき、コロケーションのデータなどを抽出してもらい、用例を作成する人たちがそれを参照する。コーパスを売りにするという方針ではなかったけれども、コーパスを踏まえる必要はあったので、私が作りました。COCAなどのデータベースが利用できるようになってからは、コーパスを作るよりも、そこから何を読み取れるかに注力する方が辞書の本質に近づけるだろうということで、そちらに主軸を移していきました。 

     

    一般的にコーパスの話をする時には、客観性や代表性ということが問題になります。でも、私の自分自身のためのコーパスには、私が読んだ本しか入れていません。主に 『英語教育』のQB= Question Box を書く時のために作っているのですが、Kindle で読んだ本を紙で買い直して、それを PDF にして、全文検索できるようにしています。そして、QBにおいては、みなさんにプロの訳語を見て欲しい、私のような英語教師が書く英語がちらちらと透けて見えるような訳語ではなくて、日本語訳だけで勝負をしているプロの訳語を見ていただくと、面白いと思う人の数が一人でも増えるかもしれないと思って、自分が読んだ英語の本の翻訳本をすべて集めます。それが今、1500冊くらいあります。代表性はありませんが、それでも私は自分のコーパスを頼りにして、最終的には原稿を締め括っています。 

    圧倒的な読書量と、用例カードを作るという経験をお持ちの方がコーパスを活用するのと、そうではなくコーパスのデータを活用するのでは、コンコーダンスラインの読み方から始まって、辞書執筆において決定的な違いが生じるのではないかと感じます。

    アンサーアイコン

    英語の種競技の選手になりたかった、と言いましたが、辞書を編纂する上で最終的にはやはり読む力が非常に重要で、量を多く読んでいないと自信が出てこない。辞書を作る、というのは、辞書に立ち向かうことであり、英語を読むという事実を積み重ねてきたという事実のみが自信を与えてくれる。辞書に立ち向かうには自信がないとできない。20年前にジーニアスの依頼をいただいた時には、ペーパーバックを1000冊は読んでいたので―今考えると1000冊では足りなかったと正直思うのですが―お話を受けることができました。 

     

    たとえば、ある語に対して100の用例があって、99例が同じ典型的なふるまいをしていると、辞書にはそれを記載することになります。ただし、たった1例であっても、その1例の文脈においては、その1例の英語を使う確率が100%であるわけです。ある文脈が問題になる場合には、99例とは違う形になる。それを理解するには様々な文脈で読む、ということをしていないと理解できないので、平均的なネイティヴよりも読書量がなければいけないと思います。 

    G4の完成を目前に小西先生がお亡くなりになられました。

    アンサーアイコン

    小西先生が亡くなられたことは、編集部含め、私たちはリアルタイムでは知らされませんでした。先生は、出版社に迷惑がかかるから、とおっしゃって QBの原稿を書き溜めておられたんですね。亡くなった後も、QB がいつも通り出ていたのでわからなかったんです。QBの原稿が終わる頃、ご家族から編集部に連絡があって実はお亡くなりになられていたことを知りました。もちろん大変驚きましたが、悲しむよりも今、この辞書をしっかり作らなくてはいけない、と感じました。 

     

    小西先生の仕事に対する思いの強さ、コミットメントは、学生の時も、言葉の端々に感じました。先生は、戦時中、防空壕でろうそくの炎の光でシェイクスピアを読んでいた、と淡々とおっしゃる。死ぬか生きるかの人が英語の本を読むのか、と思いましたね。先生は、朝3時に起きて辞書の執筆をし、夜9時に就寝する。それを続けている。とてもストイックな方でした。は先生に「先生は奥様とどんなデートをしたんですか。」と聞いたことがあるのですが(笑)先生は「家内とはデートしたことは一度あるよ。神戸大学のグラウンドに行ってお弁当を食べた。」と。 

     

    英語を100%理解できるとしたら、何パーセント理解しているとお考えになりますか、とお尋ねしたら、「95%くらいはわかる気がするけれども、5%はわからない。」とおっしゃったので、こんなストイックな先生がそうなのであれば、私は60%, 70%で終わってしまう。やり方を変えなくてはならない、と思って、指導教官を変えることにも繋がりました。この話を柏野健次先生とした時に、「俺はまだ半分わからんなぁ。」とあの先生がおっしゃるので、道のりは長すぎて終わりが見えないです。 

    南出先生と編集主幹としてお名前を連ねるようになりましたが、経緯について教えてください。

    アンサーアイコン

    出版社が決めました。編集長が南出先生に提案をし、先生がお認めくださって、編集主幹として名前を連ねることになりました。編集部には非常に強い感謝の気持ちしかありません。私は、辞書の仕事をするには、ちょっと落ち着きがないんですよ(笑)。南出先生に初めてお会いした時に、私は先生と楽しく話をしたいな、と思ったし、自分がどんな人間かを知っていただきたいと思って、色々色々お話をしました。先生は笑っていらっしゃいましたが、同じ大学の後輩だけれども接点はなかったし、急に現れたやつだし、こいつ落ち着いてちゃんと勉強するのかな、と心配なさったのでしょうね。先生がぼそっと「あいつどんな人間なのかわからへんなぁ。」というようなことをおっしゃっていたと人づてに聞いたことがあります(笑)。南出先生はとても大人の先生なので、元気なやつに任せておいたら辞書は進むぞ、というように考えられたようで、迎え入れていただけました。 

     

    そこで、自分の強みは何か、ということになりますが、私は用例に関してはG4の改訂から、日本で一番見たのではないかという自信はありました。語義、類語の記述や語法、さらには挿絵等については、編集部がどんどん注文を出してきますので、他の人の1.2倍がんばって取り組む。そして、学習者が求める方向にジーニアスを変えていこう、と思いました。 

    G6のまえがきには、「広く英語学習者のニーズに応えることを最優先課題として、第6版の執筆と編集に取り組んだ。」とありますね。

    アンサーアイコン

    学習者が求める方向にジーニアスを変えるのだけれども、ジーニアスを大きくは変えられない。トップランナーの宿命です。トップランナーになった理由、評価された理由を壊してしまうと使用者のニーズから外れてしまう。私の好きなサッカーに喩えると、勝っているチームは触ってはいけない、ということです。しかしながら進歩しないといけない。学習者の英語力の低下も叫ばれている。細かなチューニングをしながら、ジーニアスを学習者よりにしていくことが非常に大事だと思いました。 

     

    そして、ジーニアスのジーニアスらしさを推進していく。ジーニアスが他の辞書と違うのは、日本人学習者に対するテーラーメイドの情報を出していくところです。たとえば、同じような語、語句、文がある時に、同じような意味でも形が2つあるということは、この2つは違うわけです。ただし、その違いは微細なもので、ネイティヴに聞くとどちらでもいいと言われる。でも、私たちはその違いが 1mm 程度であっても気になる。2つの表現の 1mm 程度の違いを 1m 程度に広げてわかりやすく説明しないと日本人英語学習者は知的に満足しない。そこ小西先生が挑戦なさった。小西先生は、日本人が不得意な前置詞について極めた方ですから、それについていった人たちも、すべてにおいて日本語を母語とする人間のフィルターを通して記述していく。OALD の日本語版を作るのではない。これがジーニアスらしさです。

     

    もちろん、この作業は大きな困難を伴います。たとえば、今は、この表現はマルです、この表現はバツです、という規範的な記述は怖いんです。コーパスにはバツとされる表現が出てくるからです。規範的な情報をなくすのは簡単ですが、使用者からは、では結局どうなんだ、と規範性を求められるので、バランスが大事になってきます。  

  • 03.-

    『アクシスジーニアス英和辞典』の編纂

    『アクシスジーニアス英和辞典』はどなたの構想ですか。

    アンサーアイコン

    『アクシスジーニアス英和辞典』は編集部が考えた企画です。どうしても『ジーニアス」は記述を正確にする、という方向に行きますから、やはり高校生ー特に辞書離れをした、英語力の高くない高校生には難しすぎる。そういう声が強いです。一方で、「◯◯ジーニアス」とジーニアスの前に何か入ると、売れなくなる。みんなジーニアスこそが本物だと思う。私たちからすれば、学習段階に応じた適切な辞書を、と思いますが、どうせ買うなら「ジーニアス」を、と考えるんでしょうか。そこで、それまでにあった『プラクティカルジーニアス英和辞典』を改訂するのではなく、新しい方針の高校生向けのジーニアスを作るという企画が上がってきました。 

     

    私はお話をいただいた時に、ラッキーだな、と思いました。私が教えてきた学生たちは、英語が得意という人は少なく、英語は不得意だけれども好き、不得意で嫌い、という人が多かったからです。予備校で教えることから英語教師のキャリアをスタートさせて、短期大学、4年生大学と来ていますので、学習者がわからないと思うポイントをある程度は理解していたと思います。一方で、私の知識や感覚が古くなってきていることもあるでしょうから、編集部の推薦で現場の先生方にも入っていただきました。 

     

    学習者にとってわかりやすい辞書に、というのを徹底しましたが、わかりやすさは正確性と天秤にかけられることになるので、難しかったです。そして、学習者用で高校生用の辞書を作っていても、一番コメントをくれるのは英語の教員なんですね。先生方のニーズを一番大切に思っているわけではないのですが、無視できるものでもない。これは、ジーニアスでも、『ジーニアス総合英語』でも同じです。 

     

    「アクシス」の命名も、編集部がしましたが、フォントは家族に見せて、娘が一番見やすいと選んでくれたものにしました。若い人の感覚を取り入れられたかな、と思います。 

    編集主幹として新しい辞書を編んで見えたことはありましたか。

    アンサーアイコン

    私は『アクシス』で初めて主幹を務めましたが、それによって辞書編纂の全体像が見えてきました。学習者用の辞書では、大辞典で、たとえば5つの語義が立てられている単語の語義はいくつまで見せるのか。3か4か。語義を3つ立てるのであれば、用例をどの程度示すのか。語義の頻度やレジスターによって用例も変わってきます。全体のバランスを考える、ということをより意識するようになりました。また、用例は、ポイントを明確にしつつ、1文あたり平均で13語程度に収めなくてはいけない。文用例とする必然性はあるのか。句用例でいいのではないのか。句用例の中で one’s と表記すると、最近の学生はそのまま one’s と書くので、his とするのか her とするのかといった細かなことも考えなくてはいけません。ある用例についている語法注記も、文に対する注記というよりも語義に対する注記といえるものは適切な場所に注記を移す。または、関連語、たとえば winter, spring, summer, fall の訳語の順番は統一されているか、one, two, threeなどの数字は統一されているか、consistency(統一)を確保する。編集委員の時には、分業で割り当てられた仕事を徹底して行いましたが、全体に目を配る、という作業は主幹になって初めて行いました。 

     

    実は、アクシスの最初のページから最後のページまで、本当には全部を見るのかな、と思っていたところもあったのですが、編集会議で柏野先生が「当然、中邑さん、最後まで見るよね?」とおっしゃったんです。私は柏野先生を尊敬していますから、「はい。」と言ってしまったので(笑)全部見ましたが、一人の人間が集中力を持って行うには量が多すぎる、というのが正直な実感です。 

     

    さらに、作業時間には限りがあります。電子辞書メーカーやソフトのベンダーなど取引先から、期日を提示されると、そこは守らなくてはなりません。どの作業を工夫して、締め切りに間に合わせるのか―そういった最終判断をするのも主幹の仕事でした。 

  • 04.-

    ジーニアス・ファミリーと大修館書店

    英語の辞書は、研究社と三省堂、の時代から、大修館のジーニアスが英和辞典のベストセラーに。作り手の方々による発信や、『英語教育』を通じての使用者とのやり取りなどがその信頼感に影響を与えているように思います。

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    『英語教育』という雑誌を持っているのもジーニアスのメリットです。。読者と誌面を通じてやりとりができるというのは大修館が養ってきた伝統です。そこにジーニアスも乗せていただいた。こうした丁寧なコミュニケーションの土台がある、ということはジーニアスの強みだと思います。 

     

    一方で、QB は、仕組みとしては素晴らしいのですが、質問が高度化している面もあります。新米教師がふと思いついた素朴な疑問や質問を投げかける、というのとは異なり、質問と回答はかなり読み込まないといけないものになっている。私自身は、ある程度一般性のある質問を取り上げているつもりですが、質問は読者のみなさんが出されるものなので、QB の方向性は、質問者にかかっているところがあります。私たちはどんな質問でも答えます。先生方が明日からの授業においてすぐに使える情報を提供したいな、という思いを強くしています。 

    『英語教育』と合わせて、大修館英語通信 What’s New? (旧GCD英語通信コーナー)で辞書編纂の過程を公開しているのは辞書学的財産と言えると思います。

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    辞書は人間が作っているということを使用者にもわかって欲しかったので、G4改訂の時には、編集部に「G4改訂日記」の連載を提案しました。品のない宣伝にならなければいいだろう、と『英語教育』で連載がされました。辞書を作る人たちは、基本的に脇役で、そして脇役であることに誇りを持っている人たちですが、人間が作っているということを感じることにより、辞書をより身近に感じてくれる利用者が増えるといいな、という意図でWhat’s New?』でも辞書編纂の過程を紹介しています。脇役が前に出過ぎるべきではなく、その点は弁えた上で、情報を提供できればと考えています。 

  • 05.-

    辞書執筆者・編集者に必要な資質

    辞書執筆者・編集者に必要な資質とは、どのようなものであるとお考えですか。

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    一番目の資質は、英語が好きなこと。英語が好きだと、love hate relationship にも陥りますが、英語を身近に感じていること。何か困ったことがあったらそれを英語で表現して感じてみたり、英語で励まされたり。私は、英語のおかげで今の生活が送れています。もし英語に拘らない人生であったら、他に色々なことができていたかもしれないけれども、ここまで心豊かな生活ができたかな、と思います。英語には借金をしているようなものなので、英語には返していかないといけない。 

     

    二番目は、辞書が大事だと本当に思っていること。辞書に名前が載るとかっこいいよね、というだけの人では続きません。格好が悪くても、辞書は大事なんだ、と思っている人。英語が好き、ということと同じく、これは教えることができないので、資質そのものになると思います。 

     

    三番目に我慢強いこと。仕事が長期戦になるので、毎日ちょっとでも取り組まないと感覚が鈍る。日本の辞書編集者は、他に主たる仕事がある中で、毎日少しでもやらないといけない。授業があって、会議があって、帰ってきてご飯食べてビールを飲んじゃったとしても( 笑)机に向かわなくてはならない。 

     

     そして、英語が好きなことに関連しますが、執筆者は英語に触れ続けていること。院生の時に、平田先生に「英語ができるようになるにはどうしたらいいですか。」と尋ねましたら、先生は「毎日どんなことがあっても15分間英語を勉強しなさい。」とおっしゃいました。私は「なんだ、たったの15分か。」と思ったのですが、人生には色んなことがありますから、なかなか15分できないことがあります。極端な話、身内が亡くなった時にも15分勉強できるのか。私は先生と「15分勉強する」と約束しましたから、そういった場面でも15分だけは英語を読みました。先生は、15分が持つ意味をよくわかっておられるから、にそれを伝えてくださったので、それを聞いたものとしては守る必要がある。結果として、それが辞書編纂に役に立っています。 

     

    一方で、英語は大好きですから、お風呂でも読むし、寝る前にも読むし、英語を聴きながら通勤するし、わからなければ辞書などを使って調べます。けれども、その英語を批判的に見る、ということを同時にしなくてはいけません。時々苦しくなりますが、ある英語の小説を読んでいるときに、この著者よりもの方がうまく書ける、ならばこう書く。著者の言葉遣いが素晴らしいと思うなら、なぜ素晴らしいのかを言語化する。そういう心持ちでいなければいけない。コーパスを見るのは実はあまり好きではありません。なぜかというと好きな英語が切り刻まれて、ボロボロになって、部品だけ取られて、コーパスで調べたらこういうことがわかりました、と言われても、英語の本質が伝わるんだろうか、と思ってしまうところもあるからです。英語に対する愛情と批判。これがとても大切だと思います。 

     

    ジーニアスの初版が出た時に、小西先生はジーニアスを抱きながら寝たとおっしゃっていました。愛おしくて仕方がないと。私が初めて編集主幹になったG 6が出た時に、まだそういう気持ちになってはいけない、と思いました。まだ改善できることがある。精神論といえばそうですが、精神論がなければこの仕事は続けていけないと思います。 

    辞書の執筆者の確保はどのようにされているのでしょうか。

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    この間、大学の教員を辞書の世界に誘いましたが、非常に苦労しました。大学教員の業績は論文ですよね。論文や著書は業績欄のトップにありますが、教科書や辞書は「その他」に分類されます。その他はいくら増やしても「その他」ですから、内部の昇進審査では弱いです。私の所属する商学部では業績を点数化しますが、辞書はあまり点数になりません。そして辞書は表に出るまで数年かかります。そうすると、助教や准教授の先生に声をかけても、興味はあっても、今はその時期ではない、となってしまう。十中八九断られます。辞書に参加してくださるのは、すでに教授になっていて、辞書の社会的役割を考えている方、予備校や高等学校で教えていて業績としてではなく興味を持ってくださる方になります。 

     

    さらに、サンプル原稿を書いてもらって、一緒に仕事ができるようになっても、1つのプロジェクトが終わって次のプロジェクトまで残るのは、控えめに言って十人中一人です。後の人たちは、あんなしんどい仕事もう嫌だ、と。 

     

    G6の編集委員をなさっている山田正義先生は、中学校、高校、専門学校、大学、企業、社会人クラスで教えた経験がある方です。教育にも強く、辞書編纂にも向いている資質をお持ちの先生は、絶対に離したくない存在です。プライベートでも、一緒に飲みながら、いい辞書を作ろうという話をしています。 

    先生が20年以上にわたり、辞書編纂のお仕事を続けてこられたのはなぜだとお考えですか。

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    これは明らかに、辞書こそが最高の英語学習ツールである、という信念です。私は、長い間、総合英語を書きたかったんですね。4月になって新しい教科書をもらった時の、これから新しいことが始まるんだ、というあの匂いが好きだったんです。大人になってから、参考書のコーナーに行くたびに、いつかこういうものを書きたい、と思っていました。そして、当時の編集長が、これまで一緒に仕事をしてきた人たちとドリームチームを作って最高の参考書を作りたい、と声をかけてくださったので、ぜひに、ということでお引き受けしました。ですが、総合英語と辞書、どちらか1冊を無人島に持っていくなら間違いなく絶対に辞書。辞書を持っていけば、無人島で誰ともコミュニケーションが取れなくても、英語そのものに関する知識は非常に高いものを持って帰ってこられる、と信じています。 

     

    二つめの信念は、いい物を作ると利用者が直接手に取ってくれる、ということです。は教科書を6冊くらい書きましたが、教科書はいくらいいものを書いても、学校で採択してくれないと学習者の手には届かない。辞書は、全国津々浦々、どこの本屋でも売っているので、いいと思ってもらえたら、誰かの手に届きます。 

     

    そして、辞書を作ることには社会的な意味があります。私は、こうなりたい、あれがしたい、というような思いは全部叶えた、と思います。書店に行って自分の書いたものがここにあるといいな、それが辞書だったらいいな。それについて人前で話せる仕事があったらどれだけ嬉しいだろうな。自己顕示欲や名誉欲が、人並みに、人以上かもしれませんが、ありましたが、それを満たすにはそれほど時間はかかりませんでした。一方で、自分のやっていることで、どこかで学習者が喜んでくれる。特に、私のような学習者、英語を学ぶような環境ではまったくなくて、海外にいくことなど考えられないような経済的に厳しい家庭の子に、辞書さえあれば勉強ができる、という力強さを感じてもらえたら嬉しい。昔、が本当に英語を物にできるんだろうかと悩んだ時に、手に取った辞書に救われた。現在、英語学習環境はよくないけれども、将来は英語で勝負したい、英語で世界に出ていきたいと思っている人に届くようにと、疲れてきたら(笑)思うようにしています。 

     

    私は20年間で6冊の辞書を作っていますが、これは笑ってしまうくらい多いと思います。ある辞書の出版記念パーティーに招待されると、午前中にパーティー会場のホテルのロビーに呼び出されて次の辞書の編集会議がある(笑)。数珠繋ぎもいいところで、辞書の仕事をしていないのは、この20年間でほんの数ヶ月かと思います。 

     

  • 06.-

    英和辞典の今後

    これからの英和辞典はどのような方向に向かうとお考えでしょうか。

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    これは難しい質問です。現状では紙の辞書が基本になるので、それが売れていない現状は危機的状況だと考えています。そうすると、紙の辞書だけではダメ、ということになりますが、紙の辞書は文化ですから、紙の辞書が出なくなったら英語教育界は衰退していくと思います。紙をなくすことだけはできない。ですので、方便になりますが、紙の辞書だけでなくても辞書は出す。とにかくどんなに格好が悪くても続けていく。 

     

    これからの形としては、G6のように、 紙とオンラインのハイブリッドが考えられます。そして、おそらくはオンライン、スマホのアプリが中心になっていくでしょう。また、大修館であれば、国語辞典も出しているので、国語辞典とのタイアップも考えられるかもしれません。英語力だけでなく、国語力の問題も指摘されていますから、日本人学習者のニーズをより広く深く満たすような辞書、日本語をより易しい日本語で説明し、そしてそれを英語にする(日日英)ような総合的な辞書は、オンラインであれば実現の可能性があるかもしれないと思います。 

     

    また、オンラインであれば費用を少し抑えることができるのではないかと思うので、ニーズに特化したものができるかもしれません。たとえば小学生用のジーニアス、高齢者用のジーニアス、英語教師用のジーニアス、そういうものを作ることが可能かもしれません。 

     

    最後に、日本の英和辞典は質が極めて高いので、日本語の部分を他の言語に置き換えて、大きな市場に売り出していくことです。インドではオックスフォード系の英英辞書などが強いでしょうけれども、中国であれば、日中のバイリンガル・チームを作って市場に進出していくことは可能なのではないかと思います。 

     

02

07.-

インタビューを終えて

中邑先生のやると決めたら徹底的に行う意志の強さ、圧倒的な努力の量、そして英語と辞書作りに対する熱意と愛情に言葉を失いかけた2時間半でした。(インタヴューなのに。)ここまでストイックにご自身を追い込める方であるからこそー中邑先生からしたら小西先生には敵わない、ということになるのですがー恩師が生み出した、学習英和辞書界のトップ『ジーニアス英和辞典』を編集主幹として南出先生と一緒に引き継いでいくことになったのだと思いました。

先生は何度かご自身のことを「生意気」と表現されていましたが、筋を通すべきところはーおそらく誰が相手であってもーしっかり筋を通す、という誠実なお人柄と周囲の方々を楽しませたいというサービス精神が、恩師からも同僚からも編集者からも愛される理由なのではないかと推察します。

中邑先生とお話をしたのは、ほぼ初めてだったのですが、ここまでのお話をしてくださったことに感謝してもしきれません。先生のご努力に圧倒された私は、遅ればせながら、毎日の積み上げを意識的に増やすようになりました。中邑先生に近づくことはできなくても、学んだことを実践するのは今からでもできることです。

しかし、先生がどうやってガンバ大阪の試合を見る時間を捻出されているのかは謎でしかありません。今度お会いできた時に伺いたいと思います。