00

池田和夫

Kazuo IKEDA
元千葉県立高等学校教員
  • 1951年

    千葉県南房総市生まれ

  • 1975年

    茨城大学教育学部英文科卒業

  • 1975年

    千葉県立高等学校教員として45年間、教壇に立つ。

  • (千葉県立浦安高校、八千代高校、千葉東高校、船橋豊富高校、若松高校、幕張総合高校、柏井高校教諭を経て、2020年まで千葉東高校非常勤講師として)

『ライトハウス英和辞典』『コンパスローズ英和辞典』など複数の英和辞典の執筆・編集に携わる。



『ライトハウス英和辞典』『コンパスローズ英和辞典』など複数の英和辞典の執筆・編集に携わる。



  • 1951

    千葉県南房総市生まれ

  • 1975

    茨城大学教育学部英文科卒業

  • 1975

    千葉県立高等学校教員として45年間、教壇に立つ。

  • (千葉県立浦安高校、八千代高校、千葉東高校、船橋豊富高校、若松高校、幕張総合高校、柏井高校教諭を経て、2020年まで千葉東高校非常勤講師として)

01

Interview

インタビュー

2021.08.20 実施

  • 01.-

    辞書執筆者になるまで

    池田先生は英語の勉強はもともとお好きだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    中学校から英語を学び始めましたが、NHKラジオ講座「基礎英語」(芹沢栄先生)や「続基礎英語」(安田一郎先生)を聞いたり、田崎清忠先生の「テレビ英語会話初級」を見たりしていました。中学2年の英語の先生が、地元の館山航空隊基地に来ていたアメリカ人との交流をアレンジしてくれた時には、初めて英語で話す体験をしました。高校時代は、バレーボール部に所属していましたが、県大会の日程の関係で修学旅行に行けず、その後、部員のみで京都・奈良に旅行に行った際にも、機会を見つけて外国人の旅行客に英語で話しかけていました。英語には興味がありました。

    では、大学で英語を学ぶというのは自然の流れだったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    英語は好きでしたが、理数系が得意だったので、高校2年次には理系クラスを選択し、理学部(数学科)を受験しました。高度成長期、1960年代は高等専門学校が設置されるような時代で、理系の人気がありました。また、大学紛争が起きていて1969年には入学試験が中止される大学もあり、戦後の団塊世代の浪人生と一緒に受験した時代でした。1年目は受験に失敗し、浪人しましたが、家から通える予備校もなく自宅で勉強をしていました。受験勉強を進める中で、独学での限界を感じるところもあり、悩んだ末に理系から文系に志望が変わりました。教育学部を志望するようになった理由は、受験科目の関係もありますが、好きな英語を学べてよかったと思います。

    茨城大学教育学部に入学され、そこで人生を変える東信行先生との出会いがあったのですね。

    アンサーアイコン

    教育学部は1学年9名の学生に対して専任教員が5名、その他に非常勤講師や集中講義の講師もいました。英語学を専門とする先生が、東信行先生でした。研究社の『新英和大辞典』のお仕事をされていると聞いて、すごい先生なんだなと思っていました。東先生に教えを受けたのは、2年次の「英語学概論」(David Crystal のLinguistics がテキスト)と「英文法」の授業です。3年次に東先生は東京外国語大学に移られましたが、1年間、非常勤で教えに通って来てくださいました。卒業論文の直接的なご指導を受けることはできなかったのですが、卒論のテーマを決める際には、東京にお住いの先生を訪ねたこともありました。

    大学ではどのようなことを学ばれていらしたのですか。

    アンサーアイコン

    1年生の時は、大学紛争で講義が中止になることもありました。入学してすぐにESSに入り、活動には積極的に参加をしていました。ディスカッションやスピーチ、ディベートも行い、日本は国連安保理の常任理事国になるべきか否か、なども取り上げていました。卒業論文では、授業で読んだ英文学史に登場する作家などの作品からの用例を中心に描出話法の研究(特徴や分類)を行いました。「意識の流れ」を扱う作家も含まれています。作者と作中人物の関係性や内的独白など、興味深いことも分かりました。ドイツ語やフランス語にも同様の手法が使われているようです。

    千葉県の採用試験に合格されて、ご卒業後は千葉県の公立高校で英語を教え始められたわけですが、どのようなきっかけで辞書の仕事もされるようになったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    学部を卒業して教員になる時に、英語教育が専門の仁平有孝先生が、研究会に1つは加入した方がよいとおっしゃったことが頭にありました。そして、1977年に全英連(全国英語教育研究団体連合会)主催のオックスフォードでの研修に参加した後、土産話と写真を携えて東先生のお宅を訪ねた時に、「岩崎研究会」の読書会に誘っていただきました。当時、東先生のお住まいが江東区越中島で、私の初任の浦安高校から東西線で近くであったこと、読書会の会場(当時は八丁堀にあった東京都勤労福祉会館)にも近かったことが幸いしました。学校文法の会、辞書学の会に参加しました。毎回10名に満たない参加者でしたが、そこでテレビ英会話講座やラジオの続基礎英語を担当していた松田徳一郎先生を目の前にしてびっくりしました。後に基礎英語を担当された小島義郎先生にもお会いすることになりました。その岩崎研究会の読書会で発表をした後に、竹林滋先生から辞書の仕事の依頼がありました。

  • 02.-

    辞書執筆について

    最初に携わった英和辞典はどの辞典でしょうか。

    アンサーアイコン

    最初に携わった英和辞典は『ライトハウス英和辞典』の初版(1984)です。辞書と文法書を一体化したような新しい形の『ユニオン英和辞典』の第2版(1978)を改訂して作られた辞書でした。名詞の [C] や [U]、基本動詞の動詞型の表示などはすでにいつかの辞典で行われていましたが、Oxford Advanced Learner’s DictionaryLongman Dictionary of Contemporary English など英米の学習者辞典が次々に出版される中、日本でも言語学、英語学、外国語教育の理論を応用した英和辞典が次々に生まれていました。

     

    辞書の執筆は、執筆要領に従って行いました。英米の同レベルの学習英英辞典なども参考にし、不要な情報を削除し、新しい情報を加筆する作業です。全体の執筆の他に、重要語の執筆もしました。重要語は参照が広範囲に及ぶのでとても面倒で時間もかかりました。そして、校正を何度かし、ページに収まるように減行作業もしました。

    先生は、コラム類もよく執筆されていますが、『ライトハウス英和辞典』2版(1984)に導入されたコラム「単語の記憶」は、『カレッジライトハウス英和辞典』(1995)、『ルミナス英和辞典』(2001、2005)に引き継がれ、後に書籍化されています。どのような経緯だったのでしょうか。

    アンサーアイコン

    「単語の記憶」は、担当予定の先生がお忙しかったので、私が引き継いだのが始まりです。大変スペースをとるような内容でしたので、後で小さくまとめ直しました。1年以上はかかりました。

     

    その後、編集部の改田宏氏から本にまとめてもらえないか、との依頼がありました。引き受けたところ、とても喜んでくださったことを覚えています。読者カードで評判がよかったのかもしれません。そうしてまとめた『語根で覚える英単語―語源によるラクラク英単語記憶法―』(2008、研究社)は好評で9刷まで達しています。辞書の執筆と高校の教育現場での経験が役に立っていると思います。

    • -1

      「この特色は辞典の一般使用者ばかりでなく、高校現場でも大変ご好評をいただきました。」(『語根で覚える英単語:語源によるラクラク英単語記憶法』(2008、研究社)まえがきより)

    • -2

      その後、『語根で覚える コンパスローズ英単語』(2019)として新たにまとめられている。

      https://books.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-45214-8.html

    『ライトハウス英和辞典』2版(1984)に導入された「日英語義比較」もご執筆されていますが、こちらについてはいかがでしょうか。

    アンサーアイコン

    日本語と英語は1対1で対応するわけではないことが、図で示すと非常に分かりやすいので、こういうものがあってもよいのではないかと竹林先生が提案されました。日本語の「階段」は、建物の中では stairs、建物の外では steps となる、freedom と liberty は「自由」、monkey と ape は「猿」だけでは誤解が生じる。こういう例を集めてみると数多くあり、まとめて提示しました。コンピューターではなくワープロを使っていた時代です。小島先生にも原稿をチェックしてもらいました。

     

    授業でも、日英語義比較の図を板書して説明すると生徒は喜びました。shadow と shade は同じ「かげ」だけれども、「影」と「陰」のような違いがあることを説明をすると、感動して写真に撮る生徒もいました。

    辞書の執筆については、執筆要領に従って書いていくうちに習得されたことと、岩崎研究会での勉強が活きているでしょうか。

    アンサーアイコン

    敷居が高いと思われましたけど岩崎研究会に誘っていただき、辞書作りと教科書作りを学ぶことができました。Lexicon にはなかなか論文が書けず、最近になってやっとCOBUILDMerriam-Webster Advanced Learner’s Dictionary の分析の共同論文を載せることができました。月例会には時間がなく何年も欠席していましたが、最近はコロナ禍になって、辞書の会と文法の会にオンラインで参加するようにしています。

  • 03.-

    高等学校における辞書使用について

    高校の教壇に45年立たれている間に、英和辞書の市場や学校の採用方針も大きく変わったのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

    アンサーアイコン

    学校によって異なりますが、確かに昔は一括採用も多かったとは思います。段々と複数採用が増えてきたのは、良い英和辞典が増えてきたからでしょう。電子辞書が使用されるようになって、生徒は電子辞書に入っている辞書が良い辞書、という認識になってきましたね。

    高校での辞書指導について教えてください。

    アンサーアイコン

    難語辞書・専門語辞書ではなくて、学習辞書はやはり学校現場での使用者の立場を理解する必要があると思います。そして、国語辞典とは違って外国語辞典の場合は、言語学などの立場から辞書の仕組みを理解させる必要があると思います。私は「ライトハウス英和辞典の使い方」の小冊子を書きました。一括採用の学校の場合はそれを全生徒に配布することも可能でした。辞書の仕組みを理解してもらえたと思います。

     

    辞書指導の時間を確保することは難しかったです。しかし、英語科の教員で教科書を決める時には、教科書の「単語集」がついているものは生徒が辞書を引かなくなってしまうので採用したくない時もありました。進学校では、授業の進度はできるだけ早くして、教科書の他に入試対策で長文問題集や語法問題集を使用することが多かったです。辞書を用いて、多義語に注意させたり、語法は例文で確かめさせました。発音ではフォニックスのルールを板書して説明しました。

     

    電子辞書の指導の難しさは、隠れている情報が多いことです。使用する生徒の側からすれば電子辞書は便利ですが、紙の辞書と電子辞書の両方が必要の場合もありました。最近では電子辞書の売れ行きも減り、改訂もなくなったケースも聞きます。

     

    老子の「人に魚を与えれば1日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける。」という言葉がありますが、英語の学習も同じで、単語の意味を教えてあげることもできますが、辞書の使い方を教えれば、自分の力で英語をずっと学んでいけるようになると思うんですね。そう思って辞書の使い方を教えてきました。

  • 04.-

    辞書執筆者・編集者に必要な資質

    高校の教員と辞書執筆を長年に渡り継続するというのは本当に大変なことだったのではないかと拝察します。どうやって継続することができたのでしょうか。

    アンサーアイコン

    授業はもちろん、部活動もありましたから、確かに大変でした。それでも毎日1時間、2時間は執筆にあてるようにしていました。学校で一通りの校務を経験して、いろいろなレベルの学校に勤務しながら辞書の仕事を続けられたのは、やはり興味を持ち続けられたからだと思います。

    辞書の執筆者・編集者に必要な資質とはどのようなものだとお考えになりますか。

    アンサーアイコン

    辞書の編集・執筆には継続・年季を入れることが必要だと思います。想像を超える時間と労力がかかります。辞書によって編集・執筆の約束事があり、それを1つ1つ飲み込む必要があります。それから広範囲な知識と、辞書の利用者の立場を理解する必要もあると思います。

02

05.-

インタビューを終えて

 池田先生の実直なお人柄については、竹林先生からも伺っていましたし、何度かご一緒させていただいた際にも感じていましたが、私からの拙いインタヴューの依頼から、書き起こしをご確認いただくまでの過程で「謹厳実直」という言葉が自然と浮かびました。編集部からの信頼もさぞや厚いことだろう、と思います。また、そのお人柄ゆえにここに出すことは控えられた内容がさらに興味深いもので、さまざまなことを考えさせられました。学校教員が担う業務の多様化、激務化の中、辞書の執筆を継続するために、多大なる努力、工夫、苦労があったであろうことは想像に難くありませんが、先生はそういったことをほとんど口にされませんでした。 
 池田先生とは、2002年、岩崎研究会の夏の旅行でご一緒した際に、増田秀夫先生に軽いハイキングくらいと騙されて一緒に山登りをしたことがあります。ホイホイとついていったらけっこうな「登山」で、私は足指に水膨れができて大変な目に逢いました。当然、どれだけの苦行であったかを当時騒ぎ立てていたのですが、池田先生はいつもと変わらずのように見えました。しかし、今回お話をする中で、実はとても大変だと思っていらしたと知り、それはちょっと嬉しかったです。